愛しい人を待つ

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愛しい人を待つ

 「結月、まだ帰ってきてない……」  朱咲家の家臣とともに夕食を摂った後、入浴も終えてあかりはいつも夫となった結月と二人で過ごす部屋へと戻ってきたが、そこには彼の姿はなかった。  結月は今夜、青柳家の家臣に誘われてそちらの酒宴へと出向いている。戌の刻を過ぎて半刻ほど経つがまだ帰ってきていないようだった。  結月といるときはあたたかく居心地が良い部屋も、今ばかりは寒々しく、暗くて寂しいとしか感じられない。  あかりはぶるりと身体を震わせた。  寒くて暗い場所はあかりに嫌でも過去の、陰の国の牢に囚われていたときのことを思い出させる。  それらから逃げるように、あるいは部屋に僅かに射しこむ月明かりに救いを求めるように、あかりは部屋を横切って縁側に立つと夜空を見上げた。  晩秋の夜空には薄雲のかかった円に近い月が浮かび、星がまばらに輝いている。 (大丈夫。ここはあの牢の中じゃないんだから……)  開放的な空を目にして、自身に強く言い聞かせても嫌な動悸が止まらない。それどころか次第に指先まで冷えていく。小さな震えを抑えこもうと、あかりはぎゅっと手を握りあわせ、強く目を閉じた。  眼裏に浮かぶのは今、最も側にいてほしいと願う愛しい人。  あの日、牢から助け出してくれたように。この恐怖からも救い出してほしい。 「結月……」  あかりの呟きが赤い光を帯びた言霊となり、月夜に吸い込まれていき……。 「あかり?」  聞きたかった声が返ってきて、あかりははっと振り返った。  部屋の入口にはあかりが会いたくてたまらなかった人物、結月がきょとんとした顔で立っていたが、あかりが振り返った拍子に散った涙の粒を目にすると心配そうに駆け寄ってきた。  あかりは何も言わず、ひしと結月に抱き着いた。  行灯の灯されていない暗い部屋に晩秋の風が寒々しく吹き込む。結月の背に触れる指先は冷え切っていて、華奢な肩は震えている。あかりの顏は窺い知れないものの、敏い結月は全てを悟った。 「帰るの、遅くなって、ごめんね」  結月はあかりを優しく抱きしめ返しながら囁いた。落とされた囁きはあかりにとっては暗闇に降り注ぐ優しい月の光のように感じられた。 「結月……」 「うん、大丈夫。おれは、ここにいるから」  存在を確かめるようにあかりが結月の名を呼べば、結月は優しい声で応えてくれた。 (不思議……)  部屋の暗さも寒さも変わっていないはずなのに、結月が一緒にいるだけで明るくあたたかい場所に感じられる。あかりの居場所はここにあるのだと示すかのように。  あかりの震えは収まり、指先にも熱が戻り始める。亡霊のようにつきまとう過去の影がふっと消えて、あかりはようやく顔を上げることができた。 「おかえりなさい、結月」  あかりが小さく微笑めば、結月も同じように微笑んで「ただいま、あかり」と返してくれる。しかし、結月はすぐに眉を八の字に寄せた。 「帰りが遅くなって、ひとりにさせて、ごめんね」  結月はこう言って謝るが、世間一般の酒宴の解散時間を考えたらかなり早い帰宅だとあかりは思っている。優しい結月のことだからこんな夜にあかりをひとりにはしてはいけないと考えて早めに帰ってきてくれたのだろう。結月ほど敏くはないにせよ、それくらいのことはあかりにもわかった。 「……良かったの? 青柳家の人たちとは久しぶりの酒宴だったのに」 「あかりを放って、自分だけが楽しめるわけ、ない」  真顔で言い切る結月を見て、あかりは杞憂だったと気づかされた。申し訳なく思う反面、それ以上に何をも置いてあかりを一番に想ってくれる結月の愛が、嬉しくて愛おしくてたまらない。  与えられる愛と同じくらいの、あるいはそれ以上の愛を結月にも返したい。結月の温度が自分に安らぎをもたらしてくれるように、自分の存在が結月の癒しになったらいいと思う。  そんな想いが届くようにと、あかりは笑みながらぎゅーっと結月の背に回した腕に力をこめた。結月はくすぐったそうに笑う。 「どうしたの、あかり?」 「んー? 私も結月が大好きなことが伝わりますようにって」 「もう知ってるよ」  じゃれあうように結月はきゅっとあかりを包む腕の力を強めた。  先ほどよりも距離が近づき、互いの心音が聴こえるような気がした。高鳴る胸の鼓動は、交じり合う身体の熱は、果たしてどちらのものだろう。  そんな思考すら溶かすように、どちらからともなく熱い口づけを交わし合う。 「あかり……」  熱を帯びた甘い囁きに、あかりの背はぞくりと震えた。けれどもそれはひとりきりのときに感じたものとは違い、ひどく心地よいものだ。 「……結月」  応えるように、求めるように。  あかりは愛しい人に甘く微笑みかけた。
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