【4】

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【4】

 それは、ある冬の日のことだった。  深夜二時の植物園附属病院。その一階にあるコインランドリーで、「アザミ」という名を付けられたばかりの少年は洗濯が終わるのを待っていた。  ドラム式洗濯機の窓からは、入院のために持ってきた私服が洗われているのが見える。塊になったそれは洗濯槽の中を転がり、叩きつけられ、また転がる。洗濯機の上部に表示された残り時間は二十三分。アザミはジャンパーを被り、椅子の上で蹲るようにして丸くなった。この日はとりわけ寒い日で、チカチカと明滅する蛍光灯だけに照らされたコインランドリーはすっかり冷えきっている。アザミは白い息を吐き、ジャンパーの中でこっそりと自分が手に握っていたものを覗き込んだ。  そこには、一匹のネズミがいた。いや、正確には「ネズミだったもの」があった。つい先程、アザミの手の中で温もりを失ったその柔らかな腹部には、大きな傷ができていた。アザミの能力によるものだ。  プラント手術を受けてから、葉緑体が馴染むのには時間がかかる。その間、プラントになる子供たちはここに入院することになっていた。プラント能力が開花してからは、その能力を何度も使用することでその特徴や危険性を測る。このネズミは、アザミの能力を測るために使われたうちの一匹だ。彼らのおかげで、アザミの能力は「危険性の低いもの」と評価され、これ以上の訓練や人体実験をされることなく退院が決まった。しかし。  危険性がないとはとても思えなかった。アザミは死骸を見つめながら、過呼吸になりそうな息を必死で整えようとする。確かに、人間であれば死なないだろう。しかし、これが触れるだけで他人を傷つけ、ときに生物の命を奪う力であることは事実だった。だから、アザミは洗濯をしに行くにしても人と会わないようにしていた。草木も眠る、丑三つ時。こんな時間に起きている者など、誰もいない───はずだった。  暗い廊下の奥から、足音が聞こえてきた。アザミはジャンパーの中でじっと息をひそめる。やがて足音はコインランドリーの前で止まり、ガラガラと建付けの悪い引き戸が開けられた。  入ってきたのは、アザミと同じくらいの年の少女だった。顎の少し下で切り揃えられた黒髪、オーバーサイズのモッズコート。しかし、それ以上にアザミの目を惹いたのはその瞳だった。青紫色をしたそれは、どう考えてもプラントの特徴である。アザミはジャンパーの隙間から、彼女を観察して───目が合った。 「こんばんは」  そう言って、少女はにこりと微笑む。アザミの肩は跳ねた。  そんなアザミの様子を気にしているのかいないのか、彼女は自分の荷物を洗濯機に放り込む。それから洗濯機の液晶画面に手の甲を翳して料金を支払うと、あろうことかアザミの横に座った。 「こんな時間まで起きてる人、いないと思ってた」  そう言って、少女はまたアザミに微笑みかける。アザミは気が気ではなかったが、とにかく離れさせようと睨みつけた。 「起きたくて起きてるんじゃねえ」  赤紫の瞳に睨まれて、少女はなにか納得したような顔をした。しかし、アザミの想定したような怯える様子や、怖がる様子は見られない。 「……そうだよね。ごめん、人の事情も知らないで」  少女はそれだけ言うと、口を閉ざして洗濯機を眺めた。そうすると、アザミはなんだか悪いことをした気になってくる。 「……その、悪かったよ。睨んだりして」 「いいよ、気にしてないから。そういう気分のことってあるよね」  そう言う少女には、そんな気分のときなどなさそうだった。アザミにほんの少しでも会話する気があると察した彼女は、またアザミの方を向いて笑顔になる。笑顔のレパートリーが多いやつだなとアザミは思った。 「ところで……それ、どうしたの?」  少女はジャンパーを覗き込むことこそしなかったが、アザミが何かを持っているのに気づいたのだろう。アザミはこれを見せていいものか悩む。しかし、聞いてきたのは彼女の方だ。アザミはそう思って、ネズミを持った手をジャンパーの外に出した。  ネズミを見て、少女は「ああ」と理解した声を出す。 「そっか、能力の……」 「……ああ。実験が終わったとき、こいつだけ生き残ってたから回収したんだが……」  回収したところで、アザミがその傷をどうにかできるわけではなかった。仮にどうにかできたとしても、ネズミに残された時間はそう長くはないだろう。アザミはネズミを飼う余裕なんてないし、外に放したところで、この生物は自然界では生きられない。 「ねえ、ちょっといいかな」  不意に、少女がアザミに手を伸ばす。ネズミに触れようとしたのだろう、しかしその手はほんの僅かにアザミの手に触れた。瞬間、少女の手から血が零れる。 「っ、おい!」  恐れていたことが起こってしまった。アザミの心臓が早鐘を打つ。少女の顔が恐怖や嫌悪、そして苦痛に歪む様子が脳裏に浮かぶ。 「わ、悪い。これは俺の能力で、」  少女はきょとんとした顔をして傷を眺めてから、「なるほど」と呟いた。そして、彼女は「見てて」と囁いてにやりと笑う。そして、ゆっくりとその傷を反対側の手で覆い隠した。  その手がそっと離れたとき、アザミは息を飲んだ。 「どう、僕の能力。なかなかいいでしょ?」  少女は得意げにしながら、今度はネズミに手を翳す。それは少女の手が離れても物言わね死骸のままではあったが、腹部の傷はまるで最初から存在しなかったかのように無くなっている───少女の手と、まったく同じように。 少女は立ち上がると、その手をアザミに差し出した。 「考えたんだけどさ。僕の能力があれば、君はもうネズミを傷つけなくて済むんじゃないかな」  どうかな、と少女は首を傾げる。その手が取られるのを待っている。  いけないことだと分かっていた。それでも、どうしても触れてみたくて、アザミはその手をおそるおそる取った。案の定、少女の手からはぷつりと玉のように血が出て、滴り落ちる。しかし、彼女はそんな棘など気にする素振りすら見せず、アザミを引き寄せて立ち上がらせた。 「僕はヨモギ。君は?」 「……アザミ」  アザミ、アザミか……とヨモギは彼の新しい名前を口の中で転がす。それから、気に入ったとでも言わんばかりににっこりと笑った。 「どっちもキク科だ。これからよろしくね」  ヨモギの手は春のように暖かかった。
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