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呪いの言葉
一度だけ、父に殴られたことがある。それは天音と母が、激しい口論を繰り広げていたときだったが、父は迷わず天音の頬を張った。父にしてみれば、病気の母に対してなんて態度だ、ということだったんだろう。
父は怒鳴った。
「だからお前は、みんなに嫌われるんだ!」
なんという、呪いのセリフだろう。「みんなに」? 「みんな」って誰ですか?
本来ならば、父はこう言うべきだったのだ。
「だから俺は、お前が嫌いなんだ!」
このセリフならば、筋が通る。「俺」と「お前」の関係。父もきちんと、責任の一端を背負うことになる。
父は、言葉のなかに、自分を登場させなかった。「みんな」という得体のしれないものに責任を押し付けて、自分は傍観者でいようとした。
そして受け取る天音のほうも、相当に愚かなのだ。天音はすぐに、言葉通りに受け取ってしまう。言葉の裏を読んだり、疑ったりすることが苦手なのだ。
父が「みんな」と言えば、当然、父と天音の両方が知っている人物たちに限定されてくるはずなのだが、天音は勝手に、クラスメイトや部活の仲間たちの顔を思い浮かべた。そんなひとたちの気持ちなど、父が知っているはずもないのに。
「私はみんなに嫌われている。」
それは呪いの言葉だった。天音は「みんな」という意味を、「全人類」「全生物」と同意義に捉えた。会ったことのあるひとも、これから出会うひとも、「みんな」。
それは天音は愚かだけど、そういう言葉を放つ父を、こころの底から憎んだ。父の卑怯な責任回避には、当時まったく気づいていなかった。
この家において、天音の苦しみをわかってくれるひとはひとりもいない。天音は孤独だった。家族に囲まれていても、天音はひとりきりだった。
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