おろかな天音

1/1
18人が本棚に入れています
本棚に追加
/40ページ

おろかな天音

 天音は自分が不幸せだとは思っていなかった。つらい思いや大変な境遇のなかで生きているひとはたくさんいる。  ただ、生きているって、つらいな、と思っていた。それは永遠に続く、終わらない苦しみに思えた。  でも終わらないことはないのだ。ひとは必ずいつか死ぬ。そのとき、この苦しみも終わるのだろう。  死にたい。漠然と思っていた。だけどその思いはほのかなもので、必ずしも自死と結びついていたわけではなかった。 小学校六年生の一年間、天音は咳が止まらなかった。結核だったらいいのに、と天音は思っていた。歴史上の人物たちが、結核で命を落としていったことは知っていた。 けれど現代においては、結核は簡単に治せる病気なのだということは、おろかな天音は知らなかった。 天音は天音なりに、処世術を身に着けた。顔から表情を消せばいいのだ。すべての感情を葬って、なにが起こってもなにも感じないようにすればいいのだ。能面になれば、大概のことは耐えられる。 この能面戦術は、ことのほかうまくいった。顔に出さなければ、感情のほうも治まっていく。天音はつらいことが起きるたびに、この方法を使っていたようだ。それがのちに、うんとうんと後になって、びっくりするようなひどい事件を引き起こすのだが、それは相当先の話だ。 小学校六年生の担任の先生は、荒れた学級をあっという間に立て直した。彼女は当時まだ三十六歳だったのだが、正真正銘、プロの立て直し屋だった。 やり方は少々荒っぽかったが、教室に秩序を取り戻してくれたことを、天音はとても感謝していた。 先生は最初に、ある男の子を学級委員長に任命した。その子は特に成績優秀でも、優等生タイプでもなかったのだが、明るい性格で、幅広いひとから好かれていた。 いま考えると、絶妙な人選というほかない。 男の子は教室から出て行ってしまう組に入っていたから、先生の指示を拒否した。 先生は、その子の机を、掃除用具入れのなかに捨ててしまった。強烈だった。誰もが、このひとには逆らえないのだと悟った。
/40ページ

最初のコメントを投稿しよう!