通りすがり

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通りすがり

  人間は、平等なんかじゃない。  男女も、平等なんかじゃない。  世界は平和を望んでなんかいない。  先生が教えてくれなかったこと。先生が嘘をついたこと。大人がみんな、隠していたこと。  宮崎天音は、とっても素直で、極めて真面目な子供だった。言われたことはなんでも信じた。疑うことを知らなかった。 そういう意味で、天音はちょっとおつむが足りなかった。 両親は真面目で厳格、冗談なんて言った試しがないひとたちで、それゆえちょっと息が詰まった。母親は特に教育熱心で、学業や芸術には心血を注ぐよう、天音と、二歳下の妹である優菜に言い含めていた。 天音が小学校五年生の夏休みのことだ。 母と一緒に、学習参考書を買うために、都内に出ていた。 池袋駅で母が切符を買っている間、天音は近くの柱の陰に立っていた。緑色のショートパンツを履いていた。 イーストボーイのものだから、安物というわけではないのだが、天音は緑色も嫌いなら、いつもズボンを履かせられるのも嫌いだった。 本当は、しまむらかなんかの、安っぽくて明るい色味の可愛い服が着たかったが、母は許さなかった。 クローゼットのなかは嫌いな服ばかりだったけど、自分で服を買うお金なんて、持っているはずもなかった。 その当時天音を一番悩ませていたのは、クラスのなかで学級崩壊が起きていることだった。 諍いは毎日のように起こったし、授業中はクラスの三分の二の生徒が教室にいなかった。 今年初めて担任を持ったばかりの女の先生は、授業もしないで、教壇に座って泣いていた。 誰も助けてくれないし、正義も正論もまかり通らない。 法のない国に住んでいるようで、天音のこころはいつも苦しく沈んでいた。 その状況は、結局一年間続くことになる。 だからきっと、池袋駅の柱の陰に居るときも、頭を垂れてうなだれていたのだと思う。 突然、背後から声を掛けられた。ささやくようなおじさんの声だ。 男は天音の耳に、こうささやいた。 「脚、結構太いよ。」  天音ははっとして振り向いた。男はもういなかった。黒っぽいスーツを着て、雑踏を急ぐたくさんの大人たち。 そのなかに紛れ込んで、男は消えた。顔を見ることさえ叶わなかった。 たぶんその男は、天音が脚が太いにも関わらず、ショートパンツを履いていることが気に食わなかったのだろう。 その身勝手な暴力に、天音は深く傷ついた。口も利けぬほど、ショックを受けた。 当時の天音は、決して太っているわけではなかった。身長は女子のなかで、高いほうから三番目くらい。体重はぴったり平均値を取っていた。 ただ脚の太いのは、母譲りの遺伝だった。そう簡単に、どうにかなるようには思われなかった。 切符を買った母が戻ってきてからも、天音はずっと黙っていた。黙ってただ俯いていた。 食事時も、天音は黙っていた。パスタを前に、フォークを手に取り、またテーブルにゆっくり置いた。ショックなことがあると、食べられなくなってしまう癖があるのだ。 さすがに母親も、天音の様子がおかしいのに気づき、 「どうかしたの? 天音。」  と問うた。  天音はぽっつりぽっつりと、さっきあった出来事を話し出す。母はにっこりとほほ笑んだ。 「そう。そんなことがあったの。じゃあ、ダイエットをしたらいいんじゃない?」  天音の母親は、どんなときも前向きだった。痛みに寄り添ってくれるタイプのひとではなかった。
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