猫に消されるこの世界

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当惑のうちにも年は改まる。 新年を寿(ことほ)ぐ暇もなく、事態は深刻化の一途をたどった。 同様の現象が日本国外でも確認されたのだ。 その現場は、よりにもよって某国の首相官邸。秘書官が消え、代わりにドロドロの「カス」が発見されたと全世界に報じられた。 映像付きの外信ニュースは、まだどこか他人事だった事実を目の前に突き付けるものだった。 腕の中で愛くるしい猫が身を揺する。 ただそれだけで人があのように死ぬのだと。 ともあれ日本のことをあざ笑っていた各国は、雪崩を打つようにパニックに陥った。 猟銃・毒餌・虎ばさみ。 政府の必死の抑制もむなしく、人々はありとあらゆる手段でもって猫の私的駆除に走った。 ペットショップや動物病院が襲撃され、猫を命がけで守る動物愛護主義者が無惨にも撃ち殺された。 脅威は余部の身近にも迫っていた。 写真館の三件隣のアニマルクリニック。深夜のうちに押し入られて、翌朝、入院中だった猫の死体が発見された。 「まるでいつかのパンデミックのときみたい」 クリニックの様子を聞いてきた妻は青白い顔でそう言った。 「いや、あの時よりも厄介かもしれない」 「どうしてそう思うの?」 「姿が見えるからさ。下手なウイルスなんかより、もっとひどいことになるぞ」 人はだれしも原因を作った者を探し出さずにはいられない。 ウイルスのように捉えようもなければどうしようもなかった。だが、猫であればどれほど愛くるしかろうと手の下しようがある。 まもなく内閣の緊急決議で、猫の公的駆除が決断された。 遅かれ早かれこうなることは誰もが予想しえた。 「猫を殺すな!」 国会議事堂前のデモ・パレード。 シュプレヒコールの只中に悪意ある何者かが猫を投げ込んだ。悲鳴を上げて逃げ惑う参加者の姿は、夕方には動画投稿サイトにアップされた。 せせら笑うことで恐怖を緩和する。 鬱屈した世相がどこかにはけ口を求め、荒れ狂っていた。  * 1月の終わり、余部夫妻は写真館を開けることがなくなった。 家中の戸締りを厳とし、一日を家の中で過ごす。 生活に不安はあれど、身を守るためには仕方なかった。 それにもう客は誰も来ない。誰もが夫妻と同じように家にこもってしまっているのだから。 先日の買い出しでは開いている店も遂になくなった。経済も完全にマヒ状態だ。 一日一食。もそもそと限りある食糧で日々を食いつなぐ。 インターネットは罵倒と嘲笑、恐慌のるつぼでそのころには役立たずになっていた。 テレビだけが唯一外に開かれた窓。 だがそれさえ憂鬱な景色しか映してはくれない。 まったく、猫の身震いで世界まで揺らぐだなんて。 牛のゲップで太平洋の島々が沈むという話に似て、どこか馬鹿げた響き。 だがどちらも現実なのだ。 「かわいそうなことだ。猫たちには何の罪もないのに」 画面の中で、天気予報のように明日の毒餌散布予定を繰り返すキャスター。 すっかり馴染んでしまった風景に辟易し、余部がそう零す。 だが、妻はしかめ面をして鼻を鳴らした。 「いい気味ですよ。……それより知ってます? 実は今回の件、某国で開発中の生物兵器が流出して引き起こされているんですって。国連も近いうちに動き出す予定なんだとか」 「おい、なんてことだ! あれだけネットは見るなといったのに!」 募った苛立ちが、怪情報に染まった妻を見て爆発する。 小一時間ほど大げんかを繰り広げたあと、視界の片隅でスマートフォンが光を放っていることに気付いた。 婿からの着信。 折り返さずとも、いやな気配がした。 「あぁ、お義父さん! 申し訳ございませんっ。朝起きたら、彼女がポンタにっ!」 息を弾ませ、絶望に満ちたその言葉に、余部は思わずスマートフォンを取り落とす。 最悪だ。どうしてこんなことになった? そしておそらくは、彼女が愛したポンタも生きてはいないのだ。
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