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 物心ついた頃から母と二人暮らしだった。  母が普通でないことを知ったのは、小学校に通い始めた頃だったと思う。ひょろりと長い手足、小麦色の肌、目の深み。私の姿形は周囲とは少々様子が違った。外やテレビで見る母親は流暢な日本語を話しおしとやかな雰囲気をまとっていて、日本語が下手でエキゾチックな容姿をしている母はどこからどう見ても外国人だった。  決定的だったのは、母が授業参観にショッキングピンクのTシャツと花柄のスカートで現れたことと、私が容姿のことでクラスメイトからからかわれたとき、学校に乗り込んだ母が大騒ぎしたこと。そこから私は油の中に垂らされた一滴の水のように、日本での集団生活を過ごした。日本に産まれ育つ私の実感は日本人でも、周りの感覚はそうじゃない。  いつだったか、提出しなければならない大事なプリントを忘れてしまったことがある。その時先生は、「まぁ、あなたのところは仕方ないものね」と私を許した。見ていないけれど、教室中が頷いていたと思う。私はあまりの屈辱に、教卓の前で震えた。私の涙を誰もが勘違いした。  母がフィリピン人だから、その母と二人暮らしだから、仕方ない。  その心優しき侮辱を前に、私は怒りで震えていたのだ。私たち母娘と周囲を隔てる見えない膜がある中で、私は賢くなろうと決めた。  夜はスナックで働く母に連れられて、スナックの事務所で一生懸命勉強した。眠くなったら事務所の二人掛けソファで小さく丸まって眠った。夜中起こされて家に帰って、朝になれば学校へ行った。  そのスナックには母のほかにもフィリピン人がいたけど、仲良くなってもすぐにフィリピンへ帰ったり、また別の仕事へ渡ってしまったりした。母だけが例外だった。母はこのスナックで働く男性と結婚し私を産んだものの、その男性が数年で姿を消してしまったらしいことを、あるフィリピン人のお姉さんたちの噂話で知った。私は父親のことなどこれっぽっちも覚えていない。噂話について母に尋ねても愉快そうに笑われるだけで、否定も肯定もされなかった。  シャキシャキシャキ……  病室の中には、ハサミを扱う音だけがある。時折廊下から看護師さんや他の入院患者さんの声が薄っすらと入ってくるくらいで、私と母以外の呼吸は感じられない。遠い世界にいた。あのスナックにいた私たちからは、遠い世界に。  母はお客さんのところに行く前、鏡の前でお化粧を直し、丁寧に髪を整えた。学校の宿題をしながらその様子を惚れ惚れしながら見ていた私は、ある時から、見よう見まねで母の髪やほかのフィリピン人女性の髪をセットするようになった。綺麗になっていく人を、髪型によって表情まで明るくなっていく人を見るのが楽しくて仕方なかった。  美容師になりたい。  そう話した時の母は、フィリピンのことわざに「教養は誰も盗む事の出来ない宝」というものがあると、嬉しそうに笑っていた。私は母に必要とされたかった。それなのに。もうすぐで美容師になれるって時に、なんで。勝手に再婚なんかしたの。
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