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「できた」  母の顔二つ分くらいの大きさの折り畳み式の鏡を、母に渡した。自分ではよくできたと思うけれど、母はなんて言うだろう。気になるけど母の顔を直に見る勇気はなくて、私は下唇をなめながら窓の外に目線を移した。冬晴れの空に、飛行機雲が二本連なっている。 「うーん。もうチョット短く」 「わかった」  また切り始めた。実際に、見習いで働いている美容室でも切り直しを求められることはよくある。いいと思ったんだけどな。ちょっと残念に思いながらも、言われた通りに切っていく。 「悪いの。病気」 「ダイジョぶ。すぐよくなる」  たどたどしい説明ではあったものの、母がどうやら乳がんであること、でも手術と治療をすれば命に関わる状況ではないらしいことを知った。 「入院費とか、大丈夫なの。私少しくらいなら手伝えるよ」 「なに言ってる。ダイジョぶよ! 輪ちゃんもいる」  結局私は用済みなのだ。もう、輪太郎さんがいるから。私には埋められないものが、輪太郎さんにはあるんだ。胸がずきずきする。寂しくて悔しくて、なんだか無性に腹立たしかった。  その後もできたと言ったそばから、「もうチョットここ」、「ここもうチョット」と言いつける。病気になると更にわがままになるんだろうか。いや、もうこれは私に対する嫌がらせじゃないか。小さくため息をつきながら、それでも言われた通りに髪を切り、また鏡を手渡す。 「もうチョット……」 「いい加減にしてよ! 嫌がらせなの!?」  もう何度目かもわからないくらいの追加注文にうんざりして声を荒げた。肩口と言っていた髪は完全にショートヘアになっていて、これ以上切るとどう見ても母の雰囲気と顔の形には合わない。だいたいそんなの、自分でよくわかってるはずじゃないか。  私は黙々と後片付けを始める。丸椅子から立ち上がった母がのろのろとベッドに浅く腰かけたのを横目に、切った後の髪を、新聞紙ごと乱暴に丸めて持参したゴミ袋に詰めた。 「ゴメンね」  小さく言った母の声が震えた。母は、小さな子どもみたいな、寂しそうな、傷付いたような目をしていた。  母の顔が揺れる。私の目が、涙で潤んでいく。  なんでそんな消えちゃいそうな顔してんの。いつも余計なことばっかりして。自分勝手で。私が出ていくのを待ちわびてたみたいなタイミングで再婚して、ほとんど連絡も寄越さなくて、急に病気になって。私だけじゃだめだったの。私ってただの重荷でしかなかったの。矛盾だらけの感情が、涙となって溢れ出る。そんな顔するなんてずるい。ずるいよ。  耐えきれなくなって、急いで荷物をまとめて病室を出た。流れた涙を乱暴に指で拭いながら、速足で廊下を歩いていく。エレベーターに乗る前の曲がり角で知らない人にぶつかった。 「すみません!」 「いいえ。ユリ、大丈夫?」 「うん。大丈夫」  母娘だった。母親のほうは入院着を着ているから、ユリ、と呼ばれた娘さんは見舞いに来ているのだろう。娘さんの手には小さな花束が大事そうに抱えられていた。怪我はなく、花束も無事なようだ。よかった。エレベーターのボタンを押したあと、さり気なく、角を曲がる母娘を振り返る。  あの和やかな母娘には、こんなぎすぎすした思いが挟まる余地なんてないんだろうな。  私は廊下から差し込む健やかな光に飲み込まれていく母娘を、影から見ているしかなかった。
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