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「おぉ、ツキちゃんじゃない!?」
名前を呼ばれて振り向くと、輪太郎さんがいた。一、二度会ったきりだけど、この生気溢れるような、地球にそのまま根付いているかのような太い存在感は忘れようもなかった。相変わらずがっしりと何もかもが大きくて、濃い。ちょうどエレベーターから出てきたところだったみたいで、手には膨らんだ白いビニール袋を提げている。たぶんりんごだろう。母はりんご、それもジョナゴールドが好きだから。
「どうも」
「髪、切り終わったの?」
「……はい」
「もう帰っちゃう? ちょっと下でお茶しようよ! コレ置いてすぐ戻って来るから待ってて!」
輪太郎さんは私の返事も聞かずに母の元へと消えた。正直、輪太郎さんと二人きりなんて気が重い。帰ってしまおうかとも思ったけれど、このまま帰るのも感じが悪いだろうし……。迷っているうちに、輪太郎さんが戻ってきた。
「あ、よかった。いた」
いた、って何。自分が待っててって言ったのに。私は観念してエレベーターに乗り込み、少しだけ前を歩く輪太郎さんについて歩いていく。
一階の売店で、「ブラックコーヒーを一つ。ホットで。ツキちゃん何がいい?」振り向く輪太郎さんに、「同じので」と頼んだ。ブラックコーヒーなんて飲んだことないけど、こういう時、違うものを頼むのは気が引ける。
午後三時の空の下、中庭のベンチに並んで腰かけた。ベンチに空いた一人分の隙間。母という存在を隔てて座る、一人と一人。母より一回り年上のこの人と、フィリピンハーフの私。はたから見たら、「フィリピンの若い子と日本人のおじさんの年の差婚」にしか見えないかもしれないなと思った。
輪太郎さんの話では、母の乳がん治療は約半年間ほど続く予定だという。
「アンナさん『ツキには知らせないで。忙しいだろうし、私は大丈夫だから』って表向きは言ってたんだけど。治療の副作用で髪の毛抜けちゃうなら、その前にツキちゃんに切ってもらおうよって、ついお節介しちゃった」
ごめんね。輪太郎さんのブラックコーヒーから立ち上る白い湯気が、彼の言葉にふらふらと消えたり戻ったりして流れていく。
「……本当に大丈夫なんですよね?」
「僕も大丈夫ってしか聞いてないよ」
輪太郎さんの目線が上を向いた。母の病室がある方向だ。
「ショートヘア、似合ってたね。短く切ってもらいたいって言ってたし」
「……それならそうと、最初から『短く切る』って言ってくれたらよかったのに。もうちょっと、もうちょっと切ってって、嫌がらせみたいに注文つけられましたよ」
「アハハ。引き留めたかったんじゃないかな」
輪太郎さんは「よっぽどツキちゃんに髪切ってもらうのが嬉しかったんだろうねぇ」と可笑しそうに笑った。仮にそうだとしても、わかりにくすぎる。眉間にしわを寄せて口をへの字にする私に「しょうがないなぁ」と小さく鼻でため息をついて、輪太郎さんが続ける。
「アンナさん自身、今のツキちゃんより若い年齢で、家族にお金を送るために日本に来たわけじゃない。僕工場で働いてて、外国人労働者と接する機会も多いんだけど。今でも、外国人ってだけで見下すようなヤツもいるんだよね。ツキちゃんだって知ってるでしょ?」
私はこれまでを思い浮かべ、下唇を噛んで深く頷いた。
「アンナさんが来た頃なんてもっとひどかったと思うよ。それでもがむしゃらに働いて、仕送りしてさ。それにね、フィリピンの女性で出稼ぎに来てる人って、子どもはフィリピンの家族に預けてこちらで働く人がほとんどなんだ。大変なことがわかってるのに、アンナさんがツキちゃんを自分の手で育てたのはなんでだと思う?」
「……なんか、手当てがもらえるから?」
本気でそう思ってるの。輪太郎さんの目が、試すように私を貫く。
「ツキちゃんのためだよ。『ツキは自分と違って賢いから、日本で教育を受けさせたら、ツキの人生が広がるんじゃないか。自分みたいに親や親族のために生きるのも幸せだけど、ツキには私のこと気にせず自由に生きてほしい』って。ツキちゃんが美容専門学校に行くとき、真面目に相談されたよ。どうしたら自分がツキちゃんの負担にならないか、ツキちゃんのためになるか。愛情深い人だよね、アンナさん」
そう言われてみて、ふと思い当たる。通信制の美容専門学校にしようとした私に、一人暮らしをして、美容室で働きながら夜間の美容専門学校へ行くようにすすめたのは母だった。母の元に残って働いて、母に楽をさせるつもりでいた私はあの時『私のことが邪魔になったんだ』とばかり思っていた。通い始めてわかったのは、現場を見て触れることの大切さと、自分一人を生かすことの大変さだった。家にいる選択をしたら見られなかったものがたくさんあった──。
輪太郎さんがコーヒーに口をつけて「アチッ」と舌を出した。
「猫舌過ぎません?」
私は平然とコーヒーを口に含んでみせたけど、あまりの苦さに顔をしかめた。私の様子を見た輪太郎さんが吹き出す。
「それ、もらっとく。僕飲み終わるまでに時間かかるからさ。もっかい行ってきてみたら」
「でも……私より、夫が来たほうが嬉しいんじゃないですか」
いくら母が私を思ってくれていたにしても、最終的に母が頼ったのは私じゃなくてこの人だ。
「夫って?」
「輪太郎さん」
聞いたとたん輪太郎さんが両手にカップを持ったまま下を向いて、ぷるぷると震え出した。それに合わせてカップの中のコーヒーが今にも零れんばかりに波打つ。ちょっと首を傾げて覗き込んだら、耳まで真っ赤にして笑っているのだった。なんだこの人。ひとしきり笑い終えた輪太郎さんは、「ひー、お腹痛い」と目尻に涙まで浮かべた。
「僕とアンナさん、そんな関係じゃないよ。僕は事情あって居候させてもらってる、友達。いや、親友? 年上だけど、息子みたいに可愛がってもらってるっていうか」
「はぁ?」
「あ。ちなみに僕、男だけど、戸籍上は女ね」
恋愛はどっちもイケる。そう言う輪太郎さんの笑顔が、陽の光を受けててかてかと光った。とんでもないことを告白しているにも関わらず少しの曇りも陰りもないその顔を見て、私は唐突に理解した。母がこの人を頼った理由。この人でないといけなかった理由。
日本人、フィリピン人、男、女、年上、年下。そんな枠にははまらない、太陽みたいな人だと思った。
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