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「アンナさんが入院したんだ」
月曜の朝、枕元のスマホをタップして受けた電話で私の耳に飛び込んできたのは、知らない声だった。一瞬理解できなくてよくよく画面を確認すると、『母』の文字がある。ということは、輪太郎さんだろう。私が高校卒業後に家を出るのと入れ違いで、母の元へとやってきた人。母の再婚相手。戸籍上、私の父にあたる人。
私はカーテンの隙間から漏れる新鮮な朝の光に目を細めながら、ぼんやりした頭で、さっきの声の内容を咀嚼する。アンナサンが、ニュウイン。母が、入院。そこに行き当たったところでスマホを耳にあてたまま立ち上がって、座って、また立ち上がってカーテンを開けた。世間はとっくに通勤通学した後で、築三十年、六畳一間のワンルームの二階から見下ろす道路に人はまばらだった。
母と私はちょうど二十違いだから、今年で四十歳。まだまだ若いし、あの豪快で陽気な母と、病気というものが頭の中でちっとも結びつかない。
「ツキちゃん、アンナさんの髪切ってくれない?」
「はぁ」
今日は天気がいいですね、とでも言われたみたいに、私の口から出てきたのはいかにも間の抜けた返事だった。
「来週あたりどう? 病院の場所はメッセージで送るよ」
輪太郎さんは私の返事を聞かずに、慌ただしく電話を切った。入院の手続きもろもろで忙しいのかもしれない。
私はと言えば、ちょうど先週実技試験を終え、三月の筆記試験に向けて昨夜も遅くまで勉強していたところだった。部屋の真ん中、テーブルの上に広げたままの、線や書き込みでくたくたになった美容師国家試験のテキストを眺める。
この約二年間、私は一度も家に帰らなかった。帰らないことで、母に抗議をしているつもりだった。人の気持ちなんてお構いなしの、自分勝手な母に。
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