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22 夢の中▼
朝ごはんの匂いで目を覚ました。
そんな夢のようなこと、有り得るはずがないと思いながら目を擦る。寝惚けた頭であたりを見回して、何やら様子がおかしいと気付いた。
ここはリビングではない。
「………え?」
白い壁に白いベッド。
最低限のものしか存在しない生活感のない部屋はアルベルトが占拠している自室だ。その証拠に、枕からも布団からもアルベルトの甘い匂いがする。
天国のような地獄に私は頭が痛くなった。
「起きたか?」
ノックもせずに入ってくるのは彼の悪い癖だと思う。
私はその薄茶色の目をまともに見てしまった。
「……おはよう。ごめん部屋間違えた?」
「いや、俺が運んだ」
「え、なんで?」
「リビングじゃ寒いだろ」
意味が分からない。
今までリビングで寝ていたし、なんなら最近はアルベルトと会うのが気まずくて物置で眠っていた。どういう風の吹き回しなのだろう。
「そういえば、昨日夢でそんなの見たよ」
「なんだそれ?」
「アルベルトがソファで寝てる私をこの部屋に運んでくれるの。それでその後ベッドで…」
言いかけたところで止めた。
危ない危ない。その先は完全に妄想の域でしょうに。
言葉の続きを待っているアルベルトに、準備をしてくると伝えて足早に部屋を出た。
◇◇◇
「これ…アルベルトが作ったの?」
「まあな」
机の上にはサラダやスクランブルエッグ、焼いたソーセージとパンなどが並べられている。朝に弱いアルベルトがこんな早い時間に起きていることだけでも驚きなのに、いったい何事なのだろう。あとでお金を請求されたりしない?
オレンジジュースをコップ注ぎながら、アルベルトは鼻歌まで歌っている。その様子には恐怖を感じた。
「どうしたの?どういうつもり…?」
「たまには良いだろ」
「毒入ってたりしない?」
「お前は俺を何だと思ってんだ」
疑り深い私を一蹴し、席に着くよう指示を出す。
「色々、悪かったな」
「うん?」
「ティル・ノイアーに詳しい話を聞いた」
「………そうなんだ」
「お前を一人にして、悪かった」
「私が勝手に避けていたの」
再び沈黙が生まれる。
フォークにソーセージがうまく刺さらなくてツルツルすべる私をアルベルトは真面目な顔で見ながら、次の話題を探しているようだった。そんなに見られると余計に手元に集中できない。
「ミラとルイスが心配していた」
「……そっか」
アルベルトは?と聞きたくなる気持ちをフォークで潰す。私はいったいいつの間に我が身を顧みずに突撃する性格になったのだろう。冷静に自分の置かれた状況を考えてみてよ。
「そうだ、この家に注射器はない?」
「注射器?」
「そうそう。もう噛むのやめようと思って」
「……なんでいきなり、」
「番の研修でも言ってたもん。今時人体から直飲みする人はあまり居ないって」
「そうは言っても、お前はまだ慣れてないだろ」
「とにかく、もうああいうのは嫌だから」
本当に化け物みたいだし、と笑って付け加えるとアルベルトは暫くの間沈黙した。
「今は大丈夫なのか……?」
「うん。まだ大丈夫」
「ティルからは貧血だと聞いた」
「………少しだけね」
「なんで強がるんだよ」
アルベルトが席を立って、椅子に座る私の身体を引っ張り上げる。びっくりして手に持っていたコップが床に落下する。オレンジジュースがどんどん広がって小さな水溜りを作った。
私は爪先立ちで彼と対峙している。
「強がってなんかない。それとも、そんなに噛まれたい?」
「いいから飲めよ、お前に不調が出ると俺が困る」
そっか。管理者責任を問われるものね。
それならお望み通り、卑しい吸血鬼を演じてあげようか。
アルベルトのシャツに手を掛ける。何個かボタンを外すと、私が付けた可愛らしい小さな噛み跡が出てきた。それこそが、彼が私の番である証。そして、私たちの関係を象徴する唯一の繋がり。
甘い甘い匂いが私を誘う。
床に溢れたオレンジジュースなんて比ではない。
「………っ、ニーナ」
そんな風に名前を呼ばないでほしい。
アルベルトの腕が私の背中に回る。私はこの二本の腕が、シシリアを抱き締めるを確かに見た。自分の心が真っ黒いペンキを被ったように塞いでいくのを感じる。
「…ん……、腕痛いよ」
アルベルトは聞こえてないのか、尚も強く抱く。
耳元に熱い息が掛かる。
久しぶりの吸血は素晴らしく、私はまた吸いすぎるところだった。横目でアルベルトの表情を確認しながら唇を離す。もう十分かもしれない、彼はとても苦しそうだから。
しかし、血を吸い終わってもアルベルトは腕を緩めない。
至近距離で少し潤んだ茶色い瞳が私を見た。
「………アルベルト?」
それは本当に一瞬の出来事で、瞬きでもしていたらまともに信じることは出来なかったと思う。アルベルトは空いている方の手を私の後頭部に添えて、自分の方へ寄せた。
熱を持った唇が重なる。
意味が分からなくて、アルベルトを見上げたまま放心する私の姿を目に捉え、彼の顔に焦りが浮かんだ。
「悪い、間違えた」
「間違い……?」
「お前の匂いが、」
「……なに?」
「オメガの匂いに引っかかっただけだ!」
もう番の研修に行く準備をしなければ、と急にバタバタ部屋を出ていったアルベルトを見送ると、私は腰が抜けたようにその場にしゃがみ込んだ。心臓がバクバク鳴っている。
どうして、どうして?
「………こんなの無しだよ」
中途半端に朝食が残ったリビングにはまだ、卵の焼けたおいしい匂いがしている。
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