13 二人の夜▼

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13 二人の夜▼

 アルベルトが持って帰ってくれた薬は私に合っていたのか、様子を見ながら三日目には研修に参加出来るようになった。  アルベルト曰く、薬を飲めばヒート期に分泌されるオメガ独特のフェロモン的な匂いを一時的に止めることが出来るらしい。その効果は素晴らしく、アルベルトもあの仰々しいガスマスクを着けずに私の隣を歩いている。  一週間も研修を休んでいては、自分がオメガだと明かすようなものなので、普段通りの生活を送れることは有難い。 「食後の薬は?」 「飲んだわよ、心配ご無用!」  空になった薬瓶を振った。  私の手元には今、アルベルトに貰った瓶が2本残っている。中にはまだたんまり錠剤が詰まっているし、これだけあれば今回のヒートは乗り切れそうだ。万が一切れたとしても、シシリアに貰った錠剤もある。 「お風呂先に入っても良い?」 「ああ。早めに上がれよ」 「そこはゆっくりで良いよ、でしょう」  本当にどこが聖人様なのか。  プリプリしながらタオルを掴んで浴室へと向かった。 「あ~リラックス。お風呂文化万歳!」  本当なら薔薇の花でも浮かべて楽しみたいものだけど、アルベルトに提案したら排水溝が詰まるからと却下された。夢もロマンもない男め。  脚を伸ばしたまま目を閉じる。  ああ、耳を澄ませば小鳥の鳴き声でも聞こえたら最高なのに。大自然の中でこうやって風呂に入れたら、さぞかし気持ちの良いものなんだろうな……  ーーー”チュウ“  そうそう、ちゅうちゅう鳴く声なんかもして。リス的な生き物も森にはいるから。ハードな社畜生活の中でも、森林の香りがする入浴剤をお風呂に入れて楽しんでいたことを思い出すな…  ここは、森林ではないんだけども……… 「………!」  勢いよく立ち上がった。  素早く辺りを見回すと、目の端で肌色の長い尻尾が動く。その先にはずんぐりとした灰色の小さなボディ。 「いやーーー!!!!」  大絶叫が浴室内に響き渡り、叫んだ瞬間に猛ダッシュをキメたネズミから逃げるために浴槽から飛び出したら、石鹸の泡で派手に転んだ。床に這いつくばって、強打した脚の痛みに耐える。 「どうした!?」  体勢を整える前に浴室の扉が開いた。  暫しの沈黙が流れ、私の顔を捉えたアルベルトの目がゆっくりと下へと降りていく。 「見ないで!」 「………お前、薬は…?」 「飲んだってば。近寄って来ないで!もう大丈夫だから、ネズミが出ただけなの!」  そのまま二、三歩進んだアルベルトは、力が抜けたようにその場で座り込んだ。 「なに…?どうしたの?」  シャワーカーテンの影に隠れながら様子を伺う。  ネズミの事よりも、明らかにいつもと違うアルベルトの方が気掛かりだった。  ゆらりと立ち上がると、その手が私の肩を掴む。  抵抗する間もなく、タイル張りの床の上に押し倒された。 「ちょ、え、待って、何事!?」 「……ないだろ」 「はい?」 「薬飲んでたら、なんでこんな匂いがするんだよ!」 「どんな匂いよ!私はちゃんと錠剤を飲んだわ!」  引き剥がそうとする私の手をアルベルトが押え込む。 「…っ……やばい、」 「どうしたの?手をどかしてよ」 「お前のヒートに触発されてんだよ!静かにしてくれ!」  何を横暴な、と言い返そうとしたところでムンとアルベルトの香りをまともに吸ってしまう。アルコールに混じったほんのりと甘い匂い。 「ごめん、ちょっと下がって、あ、下はやっぱりダメ!」  下に進まれるとそこは完全に乳。  今はギリギリ彼の視界に入っていないだろうけど、これ以上に下がられると危ない。  まだ嫁入り前なのに、貞操の危機を感じる。  いや、それで言うと別に純潔ではないんだけども。  でもこんな望まぬ行為に及ぶわけにはいかない。 「おい!首噛むな!」 「ご、ごめんなさい…少しだけ、ね?」 「死ぬ、今吸われたら絶対に死ぬからやめ……っん」  ああ、誰か。  誰でも良いから、アルベルトのお父さんでも良い。  誰か私たちを止めてほしい。 「………う、」  甘い香りに包まれた、のぼせそうな熱気の中でアルベルトの声が聞こえる。聖人の彼が、自分に血を吸われて善がっていることにひどく興奮した。 「ごめんね…本当にごめん……」 「そんな場所で喋るな…、化け物」 「…っはぁ……化け物だけど、気持ちいいよね?」  その瞬間、見下ろすアルベルトの目付きが変わった。  何かが吹っ切れたような表情で私の脚に手を掛ける。 「もう、知らない」 「え?」 「アホなオメガが俺の部屋で匂い振り撒いて行ったせいで俺はかなり寝不足なんだよ……」 「な、何を言って…」 「何がヴァンパイアだ。黙って消費されると思うな」 「……アルベルト?」 「これで、形勢逆転だ」  荒い息を繰り返しながら、ベルトを外す。  流石に笑えない状況になってきて、背中を冷や汗が流れる。そういえば、以前アルベルトは言っていた。オメガの誘惑にアルファは勝てないと。聖人である彼が、私の誘いに乗ったら終わりだと。 「だめ!アルベルト…だめだよ、聖職者でしょう!」 「その聖職者を誘ったのはお前だろ、」 「誘ったわけじゃなくて吸血を…!」  聞こえていない。  首の皮一枚で繋がっていた理性が切れそうだ。  欲望に負けて肌に吸い付いてしまったことを後悔する。私の場合はもう既に、ヴァンパイアのオメガという社会的弱者の属性を引き当ててしまっているので仕方ないとして、その番のアルベルトまで巻き込んでしまうのは違う。  どうにも避けられそうにない絶望に涙が滲む。  アルベルトの瞳が少しだけ揺らいだ。  ーーー”ガシャンッ“  大きな音がして、首を動かすとアルベルトの右手が床に食い込んでいた。何枚かのタイルが割れている。傷付いた手の平からは真っ赤な血が流れ出していた。  ドキドキしながらその手に触れようとしたら、すごい力で押し返された。 「触るな!絶対に…触るな」 「ごめんなさい、」 「俺は自分の部屋に戻るから、お前はそれまで出て来ないでくれ。分かったか?」 「………分かりました」  ゆっくりと立ち上がったアルベルトは、こちらを見ることなく足早に浴室の扉へ向かう。 「ニーナ、悪かった」 「………そんな、」  私の方こそ、と伝える前に扉は閉まった。  コントロール出来なかった自分の本能について、反省しながら浸かったお湯はもうすっかりぬるくなっていた。
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