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01 新宿二丁目のアルベルト
いい加減にして欲しい。
平均的な1日の労働時間は8時間、1週間で40時間。これに残業が付いてもせいぜい1日あたり2~3時間が相場だろう。金曜日にプレミアムフライデーとやらを取り入れている会社もあるらしいが、私にとっては都市伝説に等しい。
「月の残業、200時間って!!!」
勢いよく個室から飛び出した私を、列を成して待っていた女性たちは驚愕した様子で一瞥する。
そりゃあそうだろう。
此処はJR新宿駅の改札内にあるトイレ。
若いカップルが、駅の汚い壁に背中を擦り寄せて抱き合っている。続きはホテルでしろ、馬鹿。
こっちは久しぶりの土曜休みを控えた金曜の夜なのに、終電を逃して家に帰れないんですが?
それどころか、財布の残金が5000円だからホテルにも泊まれない。こんなに疲れているのに、あたたかいオフトゥンで眠れない。我が愛しのオフトゥン……
「なんで!なんで、こんなに運が悪いの?」
ブツブツ言いながら駅の改札へ突進する私を、ものともせずに肩をぶつけてくる猛者たちへ。明日は鳥の糞を被ることでしょう。
新宿の駅はそもそも不親切過ぎる。
どうしてこうも迷路のように混乱する構造になっているのか。そして何故にこんなにいつも人でごった返しているのか。みんな何しに来ているか教えてよ。
深夜でも開いていて、お一人様でも入れそうな店を探してズンズンと歩いた。
洒落たバーに入るには、今の私の服装は不向きだ。
ぱっと見リクルートスーツにも見える姿で、カウンターなんかで飲んでいたら、浮いてしまいそう。
「………二丁目?」
駅前のゴタゴタ感も少し薄れて、現れたのは、かの有名な新宿二丁目。
そのまま突っ切って進もうとしたが、立て掛けられた木製の看板が目に入った。隣には地下に続く細い階段がある。地下の店は様子が伺えないため、あまり入りたくはないところだが、不思議と今日は興味が引かれた。
階段に足を踏み出す。
「いらっしゃいませー!」
入り口は赤いネオンで照らされていて、暗い部屋の中で何人かのお客さんがたむろしている様子が、ガラス越しに見えた。
「あの、此処って何時まで開いてますか?」
「当店は深夜0時から朝の7時まで営業しています!」
時間の面では必要条件をクリアしている。
要は、始発まで過ごすことが出来ればいいのだ。
「持ち合わせがあまりないんですが、お値段とかって…」
「今日はイベントデーでして、お一人様6000円で飲み放題となっております!」
「………あ、左様ですか」
足りない。
ズーンと落ち込む私の懐を察してか、店員はニコニコと提案する。
「今日は中世ヨーロッパコスの日なんです。衣装に着替えていただければ、1000円引きで5000円になりますよ」
「本当ですか…!?」
ありがとう、イベントの企画者。
案内人に続いて、ルンルン気分で店の扉を潜った。
なるほど、確かに店内はゴシックな雰囲気で、ロリータのような格好をした女の子も居る。男性もチラホラ居るが、コスプレしている客層はほぼ女性のようだった。
ロッカールームに入って、適当な衣装を手に取る。
始発まで時間を潰すだけだし、とサイズが合いそうなフワフワした黒いワンピースを選んだ。受付を済ますと店員が「奥に静かな席がある」と、比較的人の少ないエリアに通してくれた。
「別にお一人様席じゃなくても良いんだけど…」
無難にカルーアミルク頼んで、スマホの画面をチェックする。
時刻は1時少し前。こんな時間まで外に出ているのは久しぶりだ。普段は、終業後に少し残業をして、管理職たちが捌けるタイミングを見計らって家に仕事を持ち帰っていた。
早く帰れば帰るで嫌味を言われるし、遅くまで残り過ぎても残業代云々と文句を言われる。しかし、働かなければタスクは減らないわけで、毎日ハムスターのように滑車の上を爆走している現状だ。
「カルーアミルクでございます」
「ありがとうございます…」
それにしても、このエリアは人が少なすぎやしないか。
カウンターではあるが、かなり端の方で照明も異常に暗い。遠くでガヤガヤと賑わった声が聞こえるから、店自体に客は入っているのだろう。
店員が自分をこんな席に追いやった理由を考えていたところ、隣の席の椅子が引かれた。
見上げると、背の高い細身の男が立っている。
「隣、宜しいですか?」
「………どうぞ」
ハーフなのか、綺麗な薄いブラウンの目をしている。
白いシャツの上には変わった形の長いローブを羽織っていた。細い金糸で繊細な刺繍が施されている。
「綺麗ですね、」
思わず感想を口走った。
相手は嫌そうな素振りは見せず、自分の服を摘んで持ち上げて見せる。
「そうですか?結構一般的ですけど」
そうだった。ここは新宿二丁目ではないか。
新宿といえば、歌舞伎町。
歌舞伎といえば、言うまでもなくホスト。
暗くてよく見えないが、整った顔をしているように見えるし、もしかして、もしかしなくても彼は新宿で勤務するホストなのかもしれない。
ホストの仲間内では変わった服が流行っているんだな、とぼんやり思いながらストローでカルーアミルクを吸い上げた。そういえば、駅ですれ違ったツンツン頭の集団も変な色の頭をしていた。脱色し過ぎると禿げるという噂を彼らは知っているのだろうか。
「よかったら…一緒に飲みませんか?」
「え、私ですか?」
男は柔らかい笑顔で頷く。
断る理由もないので、快く了承した。
「僕、アルベルトです。貴女は?」
「私は新名です。新名アヤ」
「ああ…やはり貴女が、」
何か考えるような様子を男は見せていたが、私の方はといえば、アルベルトというその名前の派手さに衝撃を受けていた。最近のホストは横文字もOKなのか。
こうして、私たちの奇妙な飲み会が始まった。
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