スノードーム

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 半年前に書いた退職願を早く出しておけば良かったと彼は思った。  彼が訪れている温泉街は三年前までは寂れていたが、フォトジェニックを意識した町おこしに成功して観光客で賑わい、メディアでも何度も取り上げられるようになっていた。彼も取材として来ていると言えば聞こえはいいが、廃刊寸前の雑誌の編集者だった。彼は三年前にもこの温泉街を訪れていて、その時は心霊特集の取材だったので温泉街の変わりようは息を吹き返したと表すのに相応しいだろう。レトロなカフェに赤い欄干の橋。垂れ下がる柳にすら、三年前の不気味な雰囲気はどこを見ても存在していなかった。夜には色とりどりのライトアップがされて幻想的な雰囲気に包まれるらしい。彼は仕事と称した観光を楽しみ、編集長さまさまと思っていた。  彼は気付けば竹林の一本道に迷い込んでいた。どうやってここに来られたのかも彼には分からず、竹林があるならばメディアがすでに取り上げていてもおかしくないのに一切耳にした事がなかった。彼はステンカラーコートのポケットからスマホを取り出すが、真っ暗な画面のまま表示されず、今度はボディバッグからモバイルバッテリーを取り出そうとしたが、 「こういう時に限って忘れてる」  彼は心の中で言った。スマホが使えないのならば地図を見る事も、写真を撮る事も出来ない。竹林の事を雑誌に載せられれば二番煎じのネタも少しは見栄えすると前向きに考えていた事だろう。 「二十七歳で迷子か」  彼は自虐的にそう思った。竹林の一本道は前と後ろのどちらに向かえばいいのか迷う程に切れ目がなく、彼は自分を駒のように移動させた見えざる手があったとしか思えなかった。観光スポットとして竹林は紹介されていなかったが、心霊スポットとしてはどうだろう。彼はそう考えて背筋に寒気が走って肩を強張らせた。辺りは依然として人の声がなく、時折冷たい風が吹いてさざ波のような音だけが聞こえていた。彼はとりあえず歩き出したが、一歩ずつ数えながら進んでもその場で足踏みしているかのように風景に変化がない。三十まで数えて、怖ろしくなって数えるのを止めた。立ち止まり、途方に暮れて空を見上げた。 「迷子というより迷路でギブアップする気分だな」  誰かが助けてくれないだろうかと彼はぼんやりと考えていた。再び一本道の先に視線を戻すと、先程までは確かに無かった竹林の開けた場所が見えていた。
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