スノードーム

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 彼は音の出所を探ろうと首を動かしたが、軽い物が落ちたような音の正体はすぐ目の前、長方形の机の上にあった。 「ノート?」  よくあるB5サイズで紺色無地の表紙のノートは、突然現れたのでなければ人を怖がらせる力は無かっただろう。彼は逡巡しながらもノートの表紙を摘まんでゆっくりと開いた。 『こんな不思議な場所に来られて自分は幸運だと思う』  綺麗な字でそう書かれているのが目に入った彼は、他の人もここに来た事があるのだと分かって安堵と僅かな落胆が湧いた。 『最初は怖かったけどゆっくり出来たし、また来たいな』  一行開けて別の筆跡で感想が書かれていて、次のページも同様だった。 「これは旅館とかにあるメッセージノートか?」  彼がそう思っていると、カタッ、と物音がして床に万年筆が転がっていた。 「……書けって訳ね」  もう驚きはしないと彼は強がってみせた。彼は万年筆を拾ってベンチに座り直し、ノートをぱらぱら捲って流し読みしていく。ここに来た感想ばかりだった内容が段々と自らの後悔や懺悔に変わっている事に彼は気付いた。円形の中にだけ雪が降るという不思議で美しい風景に身を置いた事が敬虔な心持ちにさせるのかも知れない。 『人生に逃げ場があるとしたら、こういう場所を言うんじゃないか?』  お世辞にも綺麗とは言えない字で書かれた一言が、彼の心に深く沁み込む。彼はノートから顔を上げて、雪の降る音を聴いているかのように窓を眺めた。思考は過去に飛び、夢の中のような状況を打ち砕くが、彼は嫌な気分にはならずに万年筆の蓋を外した。 「大した事ではないが」と書き出してすぐに万年筆を止め、彼はその字を二重線で打ち消した。こんな所でまで言い訳じみた話し方をする必要はないと思ったからだ。一行開けて、彼は改めて自分の気持ちを正直に綴った。 「高校生の時、女子生徒が不良っぽい男子生徒にちょっかいを掛けられていた。俺はその男子生徒と同じ中学に通っていたから、その女子生徒よりも一言注意し易かったのに見て見ぬ振りをした。不良の男子生徒が怖かったからだが、女子生徒の方がよっぽど怖かっただろう。女子生徒に好意でもあるのかとからかわれるのが嫌だったというのもある。今にしてみれば本当に下らないプライドだ。この場所に来られなかったら、このノートが無かったら思い出す事もしなかっただろうが俺の優柔不断はこの時からすでに膨大していた。静かにひとりで自分と向き合う時間が取れて良かったと思う」  彼は万年筆の蓋をして自分の字を見つめ、その女子生徒が雪国出身だった事も思い出した。直接話した訳ではないし、名前も顔もよく覚えていないというのに、記憶は曖昧な情報だけを残していた。彼が書いた直前にあるのは、『会社の金を横領してしまった』『自分が運転する車で事故を起こし、家族を亡くした』という内容だったが彼は比べたりしなかった。今の自分にとって重要な深い痛みと向き合った彼はそっとノートを閉じた。
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