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決別の時 7
しかしここまでの時間、『婚約者』の家に来ているというのに、一向にフォルベリッドのもとに当主が挨拶に訪れる様子はない。
いや──それはまあ月に一度の交流日でも、『侯爵家当主として仕事をしている』という理由で、夫人同士で情報交換をするためのお茶会に参加していない時のヴィヴィエト侯爵夫人が顔を出すことが慣例だったが、さすがに今日は義理の父親になる者として娘の婚約者に会いに来てもいいのではないだろうか。
「……ヴィヴィエト侯爵閣下は?」
「え?」
フォルベリッドが多少イライラしながら尋ねると、フィリベールはキョトンと尋ね返してきた。
「だから……」
「だ、旦那様ですか?」
「そうだ!今日は王家主催の舞踏会の日だろう?もうそろそろ準備を終えていらっしゃるんじゃないのか?」
「あの…いえ、旦那様は奥様と共にすでに出立されましたが……」
「な、何だってぇ?!」
驚き過ぎて思わず指で掴んだままのティーカップを強くソーサーに置いた。
ガチャンと音がしたが幸いなことにカップは割れなかったため従者がホッとした顔をしたが、フォルベリッドは慌ててカップから指を離す。
さすがに無作法なことをしてしまった自覚があったため、それ以上はお茶にもお菓子にも手を出さずに大人しく座り直した。
女性の支度はなかなか時間がかかる。
自分の仕出かしかけたことをソロリと棚に上げつつ、フォルベリッドは少しずつまたイラついた表情になってきた。
「……エミリーティーヌ嬢は」
「失礼いたします」
さすがに今度は自ら飛び込んでくるのではなく、侍女が先触れをして入室の許可を尋ねる。
むろんフォルベリッドがそれを拒むことなどなく、待ち望んでいた瞬間がとうとう訪れた。
「綺麗だ」
たっぷりと見惚れ、ポカンと開けた口を何とか引き締め、だが視線だけは外さないようにとジッと見つめたまま、フォルベリッドは立ち上がってエミリーを讃える。
たった一言なのにもったいぶるように重々しく発せられたその言葉に、着飾ったエミリーティーヌは照れて体を捻じった。
「ほ、本当…に?似合ってます?」
「ああ……もう、天使どころか、君はまさしく女神そのものだ……」
「ああっ……フォルベリッド様っ」
フォルベリッドは素早く扉の方へ向かい、上品な長手袋に包まれた小さな手を両手で包む。
そんな『お姉様の婚約者』と視線を合わせたまま、エミリーは感極まったように小さく叫んでしな垂れかかろうとした。
「……お嬢様、お髪とお化粧が……お控えくださいませ」
さすがに男性への過剰な接触はしないようにと侍女が囁いたせいで、少しだけ口を尖らせてエミリーは姿勢を元に戻す。
艶々と濡れたように口紅が塗ってある小さな唇に視線を取られ、今度はフォルベリッドの方から近付こうとし──
「パラトゥース伯爵令息様……大変失礼ですが、当家内で無体を働くことは許されておりません」
「チッ……」
こちらは隠さず舌打ちしたが、チラリと見上げるアイメイクを施されていつもより魅力的な緑色の瞳と視線が合うと、フォルベリッドは取り繕おうと笑みを浮かべて自分も姿勢を正した。
「……では、君は朝からずっと自室で……?」
「ええ……今日は一日、自分のお部屋で過ごしなさいって言われていましたの……お母様もお姉様もお忙しいし、家庭教師の先生もいらっしゃらないからって……」
「何てことだ!」
こんな愛らしい少女を一人っきりで屋敷の中に閉じ込めて、自分たちは舞踏会を楽しむために準備するなんて──まるで物語の可哀想な継娘のようではないか!
しかもエミリーティーヌはそんな物語のような血の繋がりがないというわけではなく、ちゃんとヴィヴィエト侯爵当主の娘だというのに……
フォルベリッドは怒りに体を震わせながら、ギュッとエミリーティーヌの手を握る。
可哀想に──エミリーティーヌも眉を寄せて苦しそうな表情をしているのに気付き、手を離す代わりに片手でその小さな肩を抱いて自分へと近付けた。
一瞬だけ部屋にいる使用人たちの目付きが厳しくなった気がするが、適切に少しだけ体を離したままでいるのを見て誰かがホッと溜息をつくのを聞いて、フォルベリッドはムッとしつつも『正しい行動をした』という確信を得る。
「では、貴女を私の屋敷に招待しよう!」
「えっ」
声高らかに宣言したフォルベリッドの言葉にエミリーは驚いたが、周りの者たちに動揺はない。
むしろ何となくホッとしたような気配すらあった。
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