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冬休みに入って直ぐ、僕は出かける準備をしていた。玄関でスニーカーを履いていると祖母が近づいてきて、ビニール袋を渡す。
「正次さんのところへ行くのでしょ? 独り者はちゃんと食べないだろうからこれを持っていって」
「なに?」
「筑前煮」
短いやりとり。祖母が正次さんを気にかけて何かをもたせるのはいつものことだ。僕を救った正次さんに、祖父母は常日頃感謝を忘れない。
「歯がまた抜けたから固いのはムリだってさ」
「圧力鍋で柔らかくしてあるから平気よ」
正次さんは基本的に、ずぼらで不摂生だ。日雇い労働者であったからつい最近まで仕事をしていたが、仕事以外はとにかく手を抜く生き方をしていた。酒のつまみと酒があればいいという生活をしており、何度か倒れて病院に担ぎ込まれたりもしている。
ビニール袋を手に、僕は立ち上がり振り返る。祖母は寒い玄関で、手を拝むように重ねて息を吹きかけていた。皺々で細い指。
「寒いからもういいよ。行ってくる」
祖父母も正次さんも高齢だ。月日が流れて同世代の友人も作れるようになったが、三人は友達では埋められない特別な存在だった。
「夕飯はカレーにしますからね。それとも唐揚げ?」
祖母は僕の為にメニューを考えてくれるが、僕は祖母の手から顔へと視線を動かして言う。
「筑前煮が残ってるならそれでいいよ」
「あら、若い子は唐揚げとか食べたいんじゃないの?」
「そんなのコンビニでも買えるから。筑前煮でいいって」
少し曖昧な笑みで祖母は頷いた。僕が出かけるまで暖かい部屋に戻ろうとしない祖母のためにも、会話を切って玄関を出た。一歩出ると北風が吹いていて、マフラーを揺らす。足元の落ち葉がカラカラと移動していた。
正次さんの古い家は隙間風が自由に行き来する平屋だ。こんな日に、胸が苦しいと言って倒れていた。唸って床に転がる正次さんを見た時、僕の心臓は恐ろしくざわついた。伸ばされた掌を凝視してから掴むと、あの日の感触が蘇った。正次さんの他の人より分厚い手。
「病院……救急車……」
初めて正次さんが倒れたのは僕が中学生の頃だった。
既にスマホを持たされていた僕は慌てて電話で救急車を呼んだ。どんなことをどんな風に話したかなんて覚えてない。苦しむ正次さんを前に僕は慌てふためいて、僕の世界を作り出すパーツを失いかけているのだと感じていた。
それは僕にとっての二度目の危機だった。
両親を失い、妹を失った。世界はそれで形を変える。親の声、親の匂い、妹の泣き声、妹のミルクの匂い。それらは僕の世界から忽然と消え去った。毎日繰り返していた当たり前がなくなったことに順応するのには、多大な努力を要した。
正次さんが消えるというのは再びやってくる変換期だ。僕はそれに酷く狼狽えたのだった。
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