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プロローグ
1997年6月。
宮城県京野城市、弦巻。
その町に住む一人の少女。
名前は、小平 由希菜。十歳の小学四年生。
ショートカットがよく似合う、可愛らしい女の子。
学校のクラスでは、そんな由希菜のことが気になっている男子生徒が何人かいたが、彼女がそれを気にすることも、知ることもなかった。
そもそも同い年の男子に興味がない。
由希菜にとっての“異性”とは、同い年のクラスメイトではなく、近所のスーパーのアルバイト店員の“おにいさん″だった。
年頃になってくると、年上の異性が魅力的に見えて来るのは、男女共によくあること。
ただ、由希菜が、スーパーのおにいさんに好意を抱いたのは、ただの憧れや、一目惚れとは少し違った。
それはある日のこと。
友達の家で遊んでいた由希菜。
その日は夢中になりすぎて、少し遅くなった。夕方、急足で自宅に向かっていた時なこと…。
薄暗い住宅地の路地に、突然、見知らぬ男が現れた。猥褻目的の性犯罪者。
非力な少女を狙う、下衆な男だ。
手首を引っ張られたあと、口に手を当てられ、胸に手を回され抱き抱えられた。
由希菜の頭は真っ白になった。
どこに連れていかれるのか、何をされるのか…ただただ恐怖でパニックになった。
連れて行かれたのは、近くの人気のない空き地だった。
萎縮し、助けてと叫ぶことも出来ない。
泣くことも出来ない。
どんどん暗くなる時間帯が、より恐怖心を煽った。
男が、自分のスカートに手を伸ばし掴み上げた。
「服、脱げよ」
男は口角を上げてそう指示をした。
脱ぎたいわけではない。でも指示に従わなければ、殺される…。そんな恐怖が頭の中で一杯になった由希菜。
その瞬間だった。
「おい、あんた」
男の後から、そんな声がした。
ビクッ!と、男の手が止まる。そしてゆっくり振り返った。
「そんなところで、その子に何してるんだ?」
制服を来た男子高生が目に入る。
薄暗く、由希菜にははっきりと顔は見えなかったが、一つだけ理解出来たことがあった。
とても、とても良くないことが起きたけれど、今助けが来たということ。
男は、目を大きくし、慌ててその場を走り去ろうとした。
しかし塀で囲まれた空き地を出るのは一ヶ所しかない。それには男子高生を通り過ぎる必要があった。
男はポケットから折りたたみ式のナイフを取り出し、ブンブンと振り回しながら、男子高生に走り近づいた。
男子高生が怯んだ隙に通り抜けようとしたのだろう。
しかし、男子高生は、男の振り回すナイフを持った右腕を左手で肩から押さえて、顔面に“頭突き”を食らわせた。
頭突きの衝撃的は痛さに、ナイフを落とし顔面を抑えながらよろめく男に、男子高生は足首を蹴り上げて転ばせた。
地べたに腰を着き、呆然とその様子を見ていた由希菜は、人が人を倒す、それも相手はナイフも持っているという、普段見ることのない光景に圧倒された。
「君、大丈夫?」
男子高生が地べたに倒れた男を押さえつけながら尋ねた。
黙ってこくりと頷く由希菜。
「そっか、よかった!」
笑顔になった男子高生の顔をその後、由希菜は忘れることはなかった。
警察に逮捕された男は、近くに住む二十八歳の会社員。勤務態度は真面目、だったらしい。
しかし、弦巻では少女を狙った猥褻事件が八件も続いていた。
余罪についても取り調べが行われたが、全ての犯行に関わっていると自供をした。
由希菜が狙われた夕方…。
その日も、男にとってはいつもの手口で、人気のない路地で犯行に及んだつもりでいたが、学校帰りの男子高生が、由希菜が男に連れ去られる瞬間を目撃していたのだ。
瞬間的なことで、薄暗かったこともあり、その男子高生にも何があったかよく解らなかったが、気になって後をついて行ったら、男が由希菜に暴行を加えようとする現場に遭遇したということだった。
男の持っていたナイフは、少女たちが騒いだ時にその口を黙らせる脅し目的に、犯行時には常にポケットに入れていたものらしい。
由希菜を襲ったあの日は、男子高生が現れたことでパニックになり、その場から逃げるのに男子高生を怯ませようと振り回したようだったが…。
相手が悪かった。
男子高生は、格闘空手と呼ばれる“無門会道場”に、小学六年生まで通っていた、元茶帯一級のジュニア全国王者だった。
小学校卒業と同時に辞めてしまったが、習ったことは身体が憶えていたようで、それが役に立った形となった。
由希菜は、警察の聴取の時に、その男子高生の名前を聞いた。
“仙藤 昭智”と。
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