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ふるえる舌、ふるえるノド、ふるえる唇……
寒いからでは、たぶん、ない。
舌がふるえる、ノドがふるえる、唇がふるえている……
寒いからでは、やっぱり、ない。
そうよ、ない、ない、ないはずなのよ、
だから、わたしは、こんな格好にだってなれる、と果詩子は強気になって、衣服を脱ぎ、もう、全裸にも近い姿になろうかとしている。
そ、そこまでだよ、と全くそこで声が掛かった。
「も、もういいのですか?」
「ええ、そこまでで結構」
「合格、ですか?」
「結果は、のちほど」
ありがとうございました、と果詩子は一礼して、衣服を着た。
3日後、メールで面接の結果が知らされた。
〝明日から、おいでを乞う。スタジオまで〟
あ、とりあえず、これでオカネが入るな、と果詩子は安心した。
アルバイト先のレストランが店仕舞いしてしまったのだが、無職の身となるのはやりきれなかった。
《モデル募集、〝ふるえ上手なあなた〟を待っています》
バイト情報のネット検索をしていたら、そんなものが見つかった。
何やら、胡散臭い、いかがわしいとは、もちろん疑ってみた。
何しろ、〝ふるえ上手〟だものね。
だが、得られる報酬は、けっこうな金額だ。
まあ、様子見ぐらいは、と無理にも軽い気構えを装って、果詩子は面接を受けたのだった。
ふるえることには自信があるのだから、と自分を励まして……。
仕事の内容は、つまりは、モデル。とは言え、
ファッションショーに出るわけでもなければ、雑誌のグラビアに載るというものでもない。
初日、カメラを構えたフォトグラファーは、
「ふるえて」とだけ当たり前のように言った。
「さあ、ふるえて。好きなだけ」
ハイ、と果詩子は潔く頷く。
脱がなくていいのですか、と訊いたら、脱いだほうが、ふるえの調子が良くなるというのなら、そうしてもらってよい、お任せする、と言われた。
はぁ、と果詩子はまた頷き、上着を脱いだ。
そうすると、顎の先に微かなふるえが来た。
ブルブルブル、面白いほどのふるえが瞬く間に顔全体にひろがる。
「そう、その感じ。イイね」
フォトグラファーは、シャッターを次々切る。
切りながら、笑っている。やさしさにあふれた微笑みだ。
そうやって、こちらをリラックスさせてくれようとしているのだと果詩子は判って、いっそう良いモデル振りを発揮しようと張り切った。
すると、「あ、力まないでほしいな」と透かさず言われた。
張り切り過ぎてもらってのふるえなんて、いらないんだときっぱりの一言。
――きみのふるえは、とてもいい。とてもとても、いい。
今まで幾人ものにんげんのふるえるさまを、自分は撮影してきたけれども、ここまでの被写体はいてくれなかった。感謝するよ。
フォトグラファーからのひっきりなしの賛辞を、果詩子はすなおに受け容れた。
二日目は、胸だった。
果詩子はためらいなく、上半身裸になった。
「潔いんだね」
「わたしは、恥ずかしくなんてありません」
果詩子は咄嗟にこたえた。
「ギャラを頂くからには、それくらいの覚悟は……」
言いながら、自分の裸の胸を軽く揉んだ。ふるえが、いっそう甚だしくなった。
三日目は、体全体、ついにはオールヌードとなったが、むろん果詩子にためらいはなかった。顎と言わず、顔と言わず、胸と言わず、肩、胴体、両手両足とふるえを湛える果詩子を、「見事なモデル振りだね」。フォトグラファーはまた褒める。
そして、訊ねた。
「いつからなのかな。こんな風に、自由自在に、ふるえというものをお招きできるようになったのは」
ワカリマセン。果詩子はしょうじきにこたえた。
「あ、ごめんよ、言いたくなければ言わなくていいんだ」
フォトグラファーは殊勝に謝るのだが、言いたくないわけではないと果詩子は思った。
――幼稚園の年少さんの頃、いえいえ小学生にはもうなっていたのかな……と記憶はあいまいだ。
ある日のこと、仲良しのミッコちゃんとどうでもいいようなことでケンカをしてしまった。
口喧嘩だが、両者退かずの勢いで、勝負が付かない。
負けられない、負けたくないと果詩子は踏ん張った。ふだんから仲良しのミッコちゃんだからこそ、負けるわけにはいかないのだ。
言い争いが続いたが、そのうちミッコちゃんは顔全体を膨らませて、睨みを利かせた。
まるで鬼の子供のように怖い顔。あ、負けちゃうかなと果詩子は気弱になった。でも、やっぱり負けたくない。
負けたくない負けたくない、力んでいると、ふるえが来た。まず、顎先から。そして両頬、目の辺り、眉毛、頭へとふるえはせり上がる。
こんどは自分が鬼の子供のような顔になっているんだと果詩子は実感した。
案の定、「ごめんなさい」とミッコちゃんの方から謝った。
「怖いよ、負けたよ、そんなにふるえられたら、どうしたらいいかわかんないよ」
ミッコちゃんは、まだふるえるままの果詩子を見ながら、途方に暮れたように顔を伏せた。
それからも、果詩子の〝ふるえ〟は、たびたび果詩子を救ってくれた。
学校でのテストの時間、あ、これじゃイイ点数が取れないと焦った時には、顎先からふるえが来て、そうすると不思議に解答が判って、まずまずの成績が取れる。
親から叱られる時も、何だか知らないけれど、親は、娘の〝ふるえ〟を見たなら、もういいよとお小言から解放してくれた。
大人になってからも、〝ふるえ〟のお助けは減じることがない。
学校を出てからは、フリーター気分で心許なくの勤めを続けてきた自分だが、救う神ありというのか、無職の身になり掛けていても、こうして、〝ふるえ〟そのものによって、ギャラの貰える幸運にもめぐり会ったわけだ、と果詩子は胸を昂まらせた。
そんな果詩子だが、ただ一度だけ、〝ふるえ〟の効力が利かなかったことがあった。
学生時代の恋――生まれて初めての恋だった。
出来るものなら結婚したいと願った。
だが、初めてキスをされた時、果詩子はふるえた。
どうしようもないほどふるえてしまった。
「ぼくのことが嫌いなのか」
「そんなことないわ。大好きよ」
「でも、こんなにきみはふるえてる」
「それは、あの……」
「恥ずかしい、なんてことじゃないよな」
言葉に詰まる果詩子を、その男性は憐れむように見た。
よくよくの気味のわるさを与えてしまったに違いない、と思えば、気持が沈むだけ沈んだ。
もう恋なんてしない、することはない、そう思い切って、それからの毎日を、果詩子は孤独に過ごした。
モデルの仕事は順調だった。
このような仕事が長続きするものなのだろうか、と果詩子は疑問に思ったりもしたけれど、
「世界は広いんだよ」とフォトグラファーは笑った。
「広い世界にはいろんな人がいて、〝ふるえる女性〟というものを女神さまのように崇める人たちというのがそこかしこに存在している。僕は、その彼らの熱い思いにお応えさせてもらっているわけさ」
ふるえるままにポーズを取るたび、歓声が聞こえてくるような気がした。
何やらの雑誌やWEB上のコンテンツで、ふるえながら微笑む自分がもらえるひっきりなしの喝采を浴びているのよと果詩子は胸を文字通りふるわせるのだった。
そして……
半年が過ぎる頃のある日、フォトグラファーからの求愛を受けた。
「好きだ、きみが。〝ふるえるきみ〟が、好きだ」
シンプルな愛の言葉を、果詩子はためらいなく有り難く受け入れた。
ふるえる自分をあいしてくれるヒトがここにこうして間近にいてくれるんだとすなおに嬉しかった。
キスをされて、いっそうのふるえを招いてしまっても、好きだよ好きだよと彼は抱きしめてくれる。
「結婚しよう」
求婚の言葉に、果詩子が頷かないわけもなかった。
結婚して、すぐにも果詩子は身籠った。
夫は喜び、カメラを妻のお腹に向けて、パチパチとシャッターを切る。
そんなぁ、レントゲン写真みたいに胎児の姿を写せるものでもあるまいしと笑う果詩子はしあわせだった。
出産予定日より1週間早く生まれた子供は男児で五体満足、健やかに成長した。
〝ふるえる自分〟の生むにんげんというものが、〝ふるえる子〟であったらどうしようと心配しなかったわけでなかったが、男児は、〝ふるえる母親〟のお乳をおいしそうに飲み、元気よく笑って泣いてと果詩子を安らかな気持にさせてくれた。
子育てに励む果詩子は、ただただ幸せだった。
変わらず〝ふるえる自分〟というものは絶えず存在したが、ふるえるおっぱいにかわいらしい口をくっつけて、ちゅうちゅうとお乳を飲む幼子を見るたび、果詩子は母親になった自分の幸運を思わずにいられなかった。
ありがとう、と果詩子は夫に言った。
「こっちこそ、ありがとう、こんなイイ子を産んでくれて」
夫は笑って、〝ふるえる妻〟を抱きしめた。
だが――。
ありがとうと夫婦で言い合う日々は、とこしえに続くものではなかった。
男児が小学校に上がって三月目の梅雨時、果詩子は夫の心変わりを知った。
日に日に成長する我が子に目を細めるうち、フシギなことに、果詩子はいつしか、ふるえるにんげんでなくなっていた。
何事かのおおきなきっかけというものがあったわけではない。いや、やはりそうは言えないのだろうか。
そう言えば、この頃わたしはふるえていない、と意識した果詩子は同時に、産んだ我が子が〝ふるえる子供〟になっているのに気づかされた。そう、母親と入れ替わるように、男児は〝ふるえる子供〟になっていたのだ。
おっはようと元気な声で、朝の挨拶を母親に向かってする子供のちいさな顎先が、かすかにふるえているのを見た果詩子は、戸惑うばかり――どうしよう、どうしたらいいのだろう。果詩子は泣いた。
これから1年生になって、学校でイジめられたりしないだろうか。
果詩子の不幸は、それだけで終わらなかった。、
「別れてほしい」
程なく、夫から切り出された。
「別れる?」
「そうして、ほしい」
「どうしてです? 子供だっているのに」
「それでも、別れてほしいんだ」
妻を見詰める夫の視線は、乾き切っていた。何かの怒りのようなものが寸分でも湛えられていれば、まだ救われるのにと果詩子は夫を見た。
夫の目は翳りもなく澄明だった。だからこそ、夫の決意は本物なのだと果詩子は思い、黙った。
「きみは、変わってしまった」
無言の果詩子に、夫は言った。
「変わった?」
「そうだ。だって、きみはもう、いつだって、ふるえてなんかいないじゃないか」
「そんな……」
「その代わり、子供がふるえている。アイツは、〝ふるえる子供〟になっている」
おいで、と夫は子供を抱き寄せた。
パパーと父親の顔に頬を寄せる子供のふるえは見る見る大きくなって、父と子の合体をゆらゆらと揺らすまでになった。
揺れるまま、子供は父親の肩に背負われて、バイバイと手を振る。
待って。果詩子が縋ることさえ許さない。夫は子供を連れて、早足で去る。
待って、待って。こんなお別れがあるものか。
果詩子は追った。夫の早足はやがて駆け足になるが、負けなかった。
追い付く。ママーと呼び掛けるかと思われた子供は、何も言わない。
道の角を一つ曲がる。もう一つ曲がる。子供背負いの夫は、逃げるスピードをますます上げる。
このままではもう追い付けなくなりそうだ、でもわたしは諦めない、諦めるわけにはいかない。その力みがわざわいしたのか、その次の角を曲がる弾み、到頭果詩子は転んでしまった。
膝小僧を擦り剝き、血が出ている。痛すぎ、情けなさすぎ、果詩子は泣く気力さえ失っていた。
と、傍らから、「だいじょうぶですか?」とやさしい声が掛けられた。
すっと長身の女性が身を屈めて、心配してくれている。
「はい、何とか」と強がる果詩子の肩を撫でたその女性は、ぺっと手のひらに溜めた唾を果詩子の膝小僧に擦り込んで、血止めさえしてくれる。
「これでだいじょうぶ。すぐ痛くも無くなりますよ」
「ご親切に、ありがとうございます」
「いえいえ、それでは……」
おひさまを味方に付けたような明るい笑顔を窺わせて、女性はじゃあと早足、見る見る駆け足にもなる。
さようならー。振り向きざま、女性は手を振る。大袈裟にも振るだけ振られて、ああまるで、あの人は全身にふるえが来ているようだと果詩子は女性を見たが、ハッと不意打ちを食らったように全身を竦ませた。
手を振るのを止めた女性は、見る見る夫と子供に追い付く。
そうして、夫と子供のそばには、新しい〝ふるえる女〟が、もう、いた。
ママーと呼び掛ける男児のその声は、疾っくに自分に向かってのものではないのだ、と果詩子は泣いた。
流す涙のしずくが頬から顎先にと伝わると、あ、もしかしてと久々のふるえが来るよう無きがしたが、それは虚しい予感だけのことに終わった。
夫と子供と〝ふるえる女〟の姿が、遠ざかって行く。
果詩子は追いかける気力もなく、ふるえもしない手のひらをひたいに当てて、独り呆然と佇んでいた。
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