植野は真面目

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植野は真面目

それからしばらくは店には行かなかった。 機嫌の悪い日々を過ごし、赤井にもひどいことを言った。 (どうしたの?って言われたがっている人、嫌いなの) 赤井は黙っていた。 どうしていいかわからないことなんて、山ほどあるのに。わたしはいつも自分のことになると不安定でいじわるだ。 植野は、こういうときは、どうしたのって聞くんだろうか。言ってほしそうな顔をしたら、そうやって言うんだろうか。 昨日の夜、わたしは熱を出して赤井に助けてもらった。だけど赤井との関係はすごく危うくて、わたしはどうして良いのかわからなくなってしまった。 赤井があんなふうになったのは、私のせいだ。 (先に仕掛けたのはそっちだよ。) 植野の言葉を思い出す。 そうだ、いつもわたしのせいだ。 許して欲しくて、たぶん。 わたしはまた、植野の店に行ったんだと思う。 金曜日の夜、植野はいつもと変わらずそこにいた。 カウンターの中の植野は、無駄のない動きでお酒を作り、話を聞き、すこしだけなにか言ってグラスを差し出す。 受け取った客は満足そうに、時々悔しそうに、フロアに消えていく。 「もう、来てくれないかと思ったよ。」 少しお客が落ち着いたところで植野が声をかけてきた。 「大事なお客さんが一人、減ったら困るでしょ?」 わたしは答えたけど、拗ねてるみたいでまた恥ずかしくなる。 植野は笑って「何にする?」と聞いた。 「面白いやつ、強め、おまかせで」 植野は今回も、少し考えて、わたしの顔を見た。 何か思いついたみたいで、ボトルを取り始めた。 いつもは割と簡単なものが多い。 週末のイベントのお客は踊りたいし、じっくり飲みに来るわけじゃないから、グラスで直接混ぜたり、缶や瓶のビールを直接渡したりすることも多い。 だから、そんな忙しい日はシェーカーは時々しか出てこない。 それに、カクテルグラスは弱いから、フロアで飲む人たちには危険すぎて出せない。 今日のカウンターには、モードチェンジした植野が手際よく道具を並べて、それはほれぼれするくらい滑らかで、本当に踊っているようだった。 儀式みたいに丁寧に滑らかに無駄のない動き。 材料は少なくて、ジン、ライム、シロップだけ。 ライムを絞り、ジンとシロップもしっかり計って入れ、バースプーンで合わせる。 味見。 手の甲にのせた一雫。 このしぐさがすごく好きだ。 大きい氷を入れたグラスに半分注ぎ、すこし回す。 「まずは、ジンライム。いつものね」 ふつうのだ。 キリッとした酸味とジンの苦みが刺さる。 残りに氷を入れると、トップまで全部かぶせ、一歩下がる。斜に構えてシェイカーを振る植野は、少し後に向いている。 手首がやわらかく、転がすように振られたシェーカーは、フロアのリズムと合ってすごく楽しそうだ。 幸せそうな肩越しの横顔を見て、つい、にやけてしまう。 氷と液体と空気が混ざる。 すぐにコトコトとこもった音が交じる。 カウンターの上に置いた冷えたカクテルグラスに静かに注ぎ込む。 最後の一滴をきっちり落とすと、コースターに乗せ、わたしの目の前までゆっくり滑らせた。 ギムレット。 それは、すこし白濁した優しい色をしている。 「同じ材料だよ?」 そう言ったわたしに、植野は手のひらを上に向けて、どうぞ、と促す。 わたしは先に飲んでいたジンライムを置き、カクテルグラスを持ってそれを一口入れた。 「ぜんぜん違う…なんか、鋭さを無くした?いや、包んだ、みたいな感じかな。でもジンがやっぱ男前な味だから…面白い。これ…」 これ、まるで植野さんみたい。 と、言いかけてやめた。 「おんなじ材料でも、作り方、合わせ方が違ったり、温度でもね、もちろん配分でも、ぜんぜん違うのができるんだよね。」 どっちがいいとかダメとかじゃなくて、どっちも良いから、残ってる。だから、好きな方選べばいいし、選べなかったらどっちも飲めばいいんだよ。 で、他のが飲みたくなったら、それも全部飲めばいいし、飲みたくない時は飲まなければいいんだよ。 君の自由なんだから。 何に悩んでるかまではわからないけど、苦しいんだったら一番最初にしたいと思ったことすればいいよ。 「そんな顔してたら、悪い人に連れていかれちゃうよ。」 喉の奥が痛くなって、わたしはごまかすようにまた一口入れた。 爽やかに苦くて、ほんのり優しいギムレットは、わたしには大人すぎる。 やっぱり植野みたいなお酒だな。 癖があって、優しくて、真面目。 「ねえ、なんでシェーカー振るとき少し後ろ向くの?」 そう私が言った途端植野は、眼をまん丸くして驚いた顔をした。 「あぁ!くそっマジか!いやぁ恥ずかしい…」 急なキャラ変にびっくりして面食らっていると、植野は恥ずかしそうに言った。 それはね、昔、まだやり始めのころに、手が滑ってシェーカーが飛びそうになっちゃって、捕まえようとしたんだけどダメで、中身をおもい切りお客のいるカウンターにぶちまけちゃって、それから怖くて後ろ向くようになった。飛んでも大丈夫なように。さすがにオーナーに言われて直したよ。 でももう15年以上たつから、癖は抜けたはずなんだけどな。 「緊張すると、出ちゃうんだね。」 わたしは椅子から落ちそうになるくらい笑った。 植野もつられて笑う。 珍しく植野がゲラゲラ笑っているから、まわりは不思議そうに見てるけど、楽しそうな植野を見て、つられてみんなも笑ってしまっていた。 植野は、そういう人だ。 帰り際、店の外まで来てくれた植野に、礼を言い、また話をしに来たいといった。 「もちろん。大事なお客さんですから、お待ちしていますよ」 「知りたいこと、あるから。また来るよ」 植野はわたしの頬をなでて、親指で唇を触った。 わたしは答えて植野の唇を捕まえに行く。 小柄な植野はすこし顔を上げて、わたしは植野の顎を指で支えて、まるでかわいい女の子とキスしてるみたいに。 顎クイ?少女漫画かな? そんなかわいいもんじゃない。舌を絡ませ唾液も口紅もすべてを混ぜるようなかわいくもなんともない、そんな夜だ。 それに植野とは、油断するとこちらが負けてしまうから、探りながら距離をはかる。 「じゃあね、帰ります」 そういってわたしは駅に向かって歩き出した。 植野は、振り向く最後まで、わたしの顔を見ていた。
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