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「あれ、どうした? ピョンちゃん、震えているね」
もうすぐ夕飯にするから、飼っているウサギを、リビングの端に置いているケージに戻そうとした。そのとき、小刻みに震えているのが手に伝わった。
「大丈夫? ピョンちゃん」
六歳の息子、悠輝も近寄ってきて、白くて赤い目のピョンちゃんの頭を撫でた。
「悠輝、ピョンちゃんがブルブルしてるの、今まで気付かなかった?」
仕事から帰って、夕飯の準備をしていた私よりも、悠輝のほうがピョンちゃんの傍にいた。
「うん、ブルブルしてなかったよ」
「そっか」
7時は過ぎているから、今日はもう、病院には連れていけない。一晩、様子をみていても大丈夫……かな。
思案していると、インターフォンが鳴った。
「はい」
ピョンちゃんを悠輝に任せて、玄関に向かう。賃貸の1LDKだから、すぐに玄関ドアを開けられる。そこに大家の柳瀬さんがいた。
ふくよかな体系の女性で、目尻に優しそうな皺が入った柳瀬さんは、この賃貸アパートの1階、エントランスの近くにお一人で住んでらっしゃる。
「忙しいときに、ごめんね」
三階のこの部屋までわざわざ来られるのは、何か苦情でも? と、緊張した。
「多く作りすぎちゃって。よかったら、貰ってくれない?」
と、タッパーに入った、おからの煮物を渡された。
「え、いいんですか?」
「食べきれないから、貰ってくれると助かる」
「あ、ありがとうございます」
柳瀬さんは、貰ってくれてありがとう、と笑顔で帰っていかれた。
半年前、夫を交通事故で亡くし、私だけの給与で家賃を払っていけるか不安になって、三ヶ月前にここに越してきた。ピョンちゃんがいてもいいですよ、と許可をくださって、「一人で子育て大変でしょ」と、何かにつけて気を配ってくださる親切な大家さんだ。
きっと、このおからの煮物も、気配りなんだろうな。
リビングに戻ると、ピョンちゃんは悠輝にケージに入れられたみたいだった。取り付けているボトルから水を飲んでいる。
「良かった」
震えが止まっているみたいで、ホッとした。
「悠輝、私たちもご飯にしようか。並べるの、手伝って」
「はーい」
悠輝の明るい声に心が和む。父親が亡くなって、引っ越しまでして環境を変えてしまった。それでも、悠輝が元気で過ごしている。きっと、ピョンちゃんと一緒だからなんだろう。
ピョンちゃんは悠輝が三歳のころに飼い始めた。夫と悠輝とショッピングモールに出掛けた先で、ペットショップのウサギの前から、悠輝が動かなくなったのだ。
夫が見かねて、
「大事に面倒みられるか?」
と、飼ってしまったウサギ。
私は、悠輝に甘すぎるって、怒っていたっけ──
ダメだ。夫を思い出して、泣いていたら、悠輝も悲しんでしまう。環境が変わっても、悠輝は元気でいてくれているんだから。しっかりしないと。
そうか、悠輝のことばかり考えていたけど、ピョンちゃんにとっても環境が変わったのだ。もしかしたら、ストレスが溜まって、震えたのかも。
テーブルに鶏肉とグリンピースの洋風炊き込みご飯、シチュー、サラダを並べた。柳瀬さんのおからの煮物も。
「これ、いらない」
せっかく、持ってきてくださったのに、悠輝がおからの煮物を一口食べただけで、残した。
ちょっと、気落ちする。作らないもんね、おからの煮物。食べ慣れていないか。家庭料理、頑張らないと。
翌日の火曜日、悠輝の小学校が創立記念日で、休日。私も有休をとっていた。姉の子供のところは創立記念日でも休みじゃないのに、「なんで、ここの小学校は?」って、有休を取るときは腹が立っていたけど。有休を取っていてよかった。朝からピョンちゃんを病院に連れていける。
キャリーケースにピョンちゃんを入れ、悠輝には留守番をしてもらって、早々と病院にいった。
昨日震えただけで、病院でも震えなかったからか、「大丈夫でしょう」と、あっという間に診察が済んだ。
なのに、アパートの三階の外廊下でピョンちゃんが震えているのに気が付いた。キャリーケースの取っ手に震えが伝わってきたのだ。
「どうしたの? お家だよ」
ピョンちゃんに声をかけながら、玄関前にきた。ドアの鍵を開けようとしたときだった。
「学校はどうしたの?!!」
中から叫び声がした。この声は柳瀬さん? 慌てて鍵を開けようとして、びっくりした。鍵が開いてる。
ドアを開けると、上がり込んでいる柳瀬さんがいた。その前に悠輝がいる。悠輝は椅子から落ちたように、床にいた。
「悠輝!」
悠輝に走り寄って、キャリーケースを置き、怪我がないか確認する。
どこも怪我をしているようには、見えなかったけど、悠輝の目に涙が溜まっていく。
「二人とも、お休みなの? ちょっと、部屋の様子を見に来てあげたのよ。何か、困りごとがないか、と思ってね」
頼んでもないのに、勝手に上がるなんて。今までも、留守中に上がっていた?
近くに置いたキャリーケースが目に入る。ピョンちゃんがまだ、小刻みに震えている。
そういえば、ピョンちゃんが震えたときって、柳瀬さんが来たときじゃなかった? ウサギって耳がいいから、来るときの、柳瀬さんの足音が聞こえていたのかも。それでも、害がないのなら震える必要なんてない。人間より音に敏感なピョンちゃんは、私には分からなかった柳瀬さんのこんな一面を感じ取っていた、とか。それとも、何度も留守中に部屋に上がる柳瀬さんを目撃していたからか。
わからない。兎に角、勝手に部屋に上がり込むなんてとんでもない。
「帰ってください」
振り返って、柳瀬さんを睨み付けた。
「何よ、人を悪者みたいに。助けてあげたかっただけなのに」
ボソッとした声がして、柳瀬さんが部屋を出て行く。柳瀬さんがこんな人だったなんて。
「悠輝、怖かったね」
私は悠輝を力いっぱい抱きしめた。
また、引っ越しをすることにした。姉も助けてくれた。
余計な費用がかかった分、仕事を頑張るしかない。新しい部屋で、震えなくなったピョンちゃんと悠輝は、今日も元気にリビングの中で遊んでいる。
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