第1話 新年祭の季節

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第1話 新年祭の季節

 今年も新年(ウェプ・レンペト)祭が終わり、大河ナイル(イテルゥ)の増水が始まる。  夏の暑さも最高潮を迎え、人々は、一息つきながら熱波に耐える季節だ。  毎年、この頃にだけは、あらゆる職業の動きが緩慢になる。  農民も、牧人も、役人や職人たちも、―ー誰も、真夏の太陽(ラー)の射るような輝きに打たれながら働きたくはない。例外は、治安維持のために巡回を続ける衛兵たちや、死者が腐ってしまう前に大急ぎで処置をしなければならない葬儀屋くらいのものだろう。  雨が一滴も降らないこの季節、昼間の熱気を凌ぐには、木陰か建物の中で昼寝をするか、川でも泳ぐものと決まっている。  そんな気だるい午後の時間、チェティは、涼しい暗がりの広がる大神殿を訪れていた。  このメンフィスの街の主神は冥界神プタハだから、神の住まいである主神殿の入り口は北に向けられ、内部は、常に闇に包まれている。付随する妻女神と息子神の神殿の、明るい日差しに包まれているのとは対照的だ。  その主神殿の脇の回廊を突き抜けると、やがて、神官や神殿に務める書記たちしか訪れない、東の船着き場に面した川べりへと突き抜ける。  風の吹き込む心地よい日陰には、うだるような暑さに仕事を放棄した下級神官たちが座り込み、きらめく川の流れを見つめていた。  その中に、見慣れた顔が混じっている。本来は、こんなところにいるべきではない人物だ。  「カプタハ」 声をかけると、若者が顔を上げた。  「ああ、チェティか。今日もあっちぃーな」  「そうだね。で、君、何でこんなところに?」 チェティの幼馴染のネフェルカプタハは、一応、祭礼の主役を務める資格を持つ高位神官の一人で、大神官の息子でもある。それなのに、下級神官や日雇いの下働き職と一緒になって、回廊の端に腰を下ろして涼んでいるのは、本来はあってはならない姿だった。  「ここが一番涼しいんだよ。まあ、もっと涼しいのは客間の二階なんだが、そっちは親父たちがいるからさぁ」 彼は、うらめしそうに川に面した白い石造りの建物のほうを見やった。  高位神官たちは今頃、そこの二階にある見晴らしのよい場所で、川の水位が上がっていくのを眺めながら、世間話でもしているに違いない。  「お前のほうは? 役所の仕事はもう終わったのか」  「この時期はさすがにね。仕事があっても午前中だけ。今日で必要なことは片付いたから、ぼくは、明日から十日休みだよ」  「はー、羨ましいね。一週間まるまる休みってのは。新年休暇ってやつだな。俺んとこなんて、一日たりとも休みなんて無ぇぞ」  「神官なんだから、当たり前だろ。お仕えする神様に休みは無いんだ。神々が休暇で人間世界を見てない、なんてことはあり得ないんだし」  「まーな」 汗ばんだ白い神官衣を手でぱたぱたと動かしながら、ネフェルカプタハは川のほうに視線をやった。  隣に腰を下ろしたチェティも、自然と、そちらに目を動かす。  川の水位が上がるこの季節は、大型船の通行が可能になる時期でもある。  「――敗けたんだってな」 ようやく、ネフェルカプタハが切り出した。  チェティも小さく頷いた。  三年前、初めて関わった事件は、ヌビア人傭兵のヌリにかけられた殺人容疑だった。そのヌリが所属する部隊を含む、王の遠征隊は、この街の前の船着き場から、東の国境へと遠征していった。  その遠征がようやく終わり、部隊が解散して兵たちが各所へ帰還するらしいとの噂が、少し前から流れ始めていた。  敗北、という結果をもって。  けだるげに川を見つめる下級神官たちの眼差しは、近々戻ってくるはずの遠征隊の船を探しているものでもあった。  東の国境線、大河が海に注ぐ場所には、「ホルスの道」と呼ばれる街道の始発点と国境の砦がある。王権の守護者である鷹神、ホルスの名をつけて守護を祈願した道だ。  報せは「遠征の失敗」だけであり、砦が落ちたかどうかまでは聞いていない。  異国に侵略されたとか、国境の関所が抜かれたとかではないのだろうから何も起きないとは思っているのだが、どういう状況で敗北したのかも、何が原因でどのくらいの被害が出たのかも判らない。  州議会には正式な通達が出ているのかもしれないが、その話もまだ、一般までは落ちて来てはいなかった。  「これじゃあ、王様の権威が下がっちまうなぁ」 ネフェルカプタハは、他人事のように言う。  「どうせまた、鷹の首をすげ替えるんだろう? 次の王は、何て名前の奴になるんだろうな」 あまりに直球すぎる言葉に、チェティは、思わず苦笑する。  「カプタハ、ぼくは州役人なんだけど。建前上は王のしもべだよ」  「気にしちゃいないだろ、そんなこと。てか、お前が州知事ですら敬ってるの見たことねぇんだけど」  「そんなことはない。少なくとも、州知事殿はここ十年は変わってないんだ。直接話したこともないから何とも言えないだけで」 正直なところを言えば、王という存在は、州知事以上にピンとこない存在だった。  上流のイチィ・タウィの都から出ては来ず、姿を見たこともない。しかもここ最近は頻繁に変わっていて、愛着が湧くことすらないのだった。王名を書くのに慣れる前に次の王名が通達される。書類の書き換えが、ただただ面倒なだけだ。  「これから、どうなるんだろうなぁ」  「さあ…。下流のほうは異国人がけっこう入り込んでるって話しだ。東への遠征が失敗したんなら、いずれアジア人(アアム)に取られてしまうかもしれないね。」  「はあ、宗教が違う奴らは面倒だなあ…。」 気のない返事をして、ネフェルカプタハは、ちらと隣の親友を見やった。  「ところでさ、お前、例の見合いの件はどうなってるんだ?」  「うっ。」 この国の明日を占う話から、唐突に身内のささやかな問題へ。話題の落差は、大河最上流の急湍よりも激しい。  「い…一応、会うことにはなった…。明日、後見人の人と落ち合うことになってる…けど」  「対岸の、イウヌの街の外れに住んでる富豪の末娘だろ? 相続する遺産はそれなりにありそうだし、実家がこの街じゃないなら親族と揉めることもないし、色々と都合いいだろ」  「何で、そんなことまで知ってるんだよ」  「紹介したのは、うちの親父なんだぜ。そりゃ概要くらいは知ってるさ」 いつの間にか、冷たい石の床にだらしなく寝そべって頬杖をつきながら、ネフェルカプタハはにやにやしていた。  「堅苦しい政治の話なんかより、絶対そっちのが面白くなりそうなんだよな。あとで顛末を聞かせてくれよ。」  「……。」 はあ、と声に出してため息をつき、チェティは、口を閉ざした。  兄がお見合いを断り続けている間に、結局、自分のほうが先にお見合いをさせられることになったのだ。  相手はずいぶん年下だというし、即結婚というわけではないらしいが、どういうわけか、婚約だけ早く取り決めたいのだという話だった。  それにこの件は、母でなく、父のたっての希望だった。  古い友人であるネフェルカプタハの父親からの紹介だから、面子をつぶすわけにはいかないのだと言われ、仕方なく、顔合わせだけはすることになってしまった。  (年は十一らしいから、メリトとほとんど変わらない。それを、未来の花嫁って言われても…。) まず、話すら合わないのではないか。  まだ幼く、子供らしさしかない妹のことを思い出しながら、チェティは、今から気が重かった。  会話を続けようと、口を開きかけた時だ。  「ネフェルカプタハ様~?」 気の抜けたような、妙に間延びした特徴のある声が割り込んできた。  顔を上げると、前歯の一本欠けた若者が一人、片手を上げてにこにこしながら陽の光の中を近づいてくる。この暑さもものともせず、直射日光に晒されることを恐れもしていない。  「げえ…」 隣で、ネフェルカプタハが小さく呟いて体を起こした。  若者のことは、チェティも知っている。  書記学校で同級生だった、エムハトだ。年は三、四ほど相手が上だが卒業は同時で、卒業後はこの大神殿で聖牛の世話係をしている。名誉職だが地位はそれほど高くなく、高位神官であるネフェルカプタハは上司のような立場になる。  近づいて来たエムハトは、チェティに気づいて、歯の欠けた部分を見せながら、笑った。  「チェティもいたのか。久しぶり」  「うん、久しぶり」  「それで、ネフェルカプタハ様。牛の件なんですけど、今週のどこかで牧場に来てもらえませんか。候補は選ぶので」 若者は、書記学校にいた時と同じように突拍子もない話し方をする。言葉はわかるのだが、言っている意味が判らないのだ。  「待て待て。前後をすっ飛ばしすぎだ。牛――聖牛か? それが、どうかしたって?」  「老いてきたので、そろそろ入れ替える話です」  「ああ、うん。そうか、親父がなんかそんな話してた気がするな。で?」  「今年生まれた牛たちの中から、次の聖牛の候補を選ぶんで、聖化の儀式をお願いします」  「ははーん、つまり、お前が今から牧場に行って新しい聖牛候補を選ぶんで、それが済んだら俺が牧場に行って聖牛を迎える儀式をしろと。なるほど? 暑いからやだ。」 チェティは、思わず吹き出した。  「やだ、って…。カプタハ、即答すぎるだろ」  「ええーだって、こんなクッソ暑いのに、何で今なんだよ。てか、俺じゃなくてもいいだろ。面倒くせぇ~」  「大神官様が、どうせだらだら日陰で寝てるだけだから連れていけと仰いました」  「正直だなお前も! くっそ、あの親父め」  「まあ、だらだらしてるのは事実だしね」 と、チェティも頷く。  「たまには、真面目に仕事しなよ」  「はい。よろしくお願いします」  「ちっ…。まあ、いいや。朝早くならまだマシだろ。んじゃ、候補決まったら声かけてくれ」  「はい。じゃ行ってきます」  「って、今から牧場に行くのかよ。そんなに働かなくてもいいってのに…。」 ネフェルカプタハが呟いた時にはもう、エムハトは、颯爽と神殿の外に向かって歩きだしている。  「エムハト、元気そうだったね。」  「ああ。あいつ神官としちゃあイマイチだったが、牛のこととなると別人みたいに有能なんだよな。聖牛の世話係は適任だ」 書記学校に居た時は、どこか要領が悪いというか、真面目にやりすぎて失敗することが多かった。  神殿に就職してからも、致命的な失敗のせいで本殿に出禁になるほどだったと聞いていたが、地位は低くても名誉ある役職を任された今の彼は、生き生きと仕事をしているようにも見える。  あれはあれで、幸せな生き方なのかもしれない。  「――それじゃ、ぼくは、これから実家に戻るから」  「おう。見合い、頑張れよ。」  「……。」 思わずため息が出そうになるのを我慢して、チェティは、精一杯の笑みで頷いた。  夏の暑さはまだ、半ばに差し掛かったばかり。  あと数週間は、こんな日が続くことになるだろう。
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