第21話 憎しみの真理

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第21話 憎しみの真理

 ネフェルカプタハとは、水路のところで別れた。  神官たちは、待たせていた小舟に乗って、そこから直接、大神殿の船着き場へ戻るつもりらしい。  「じゃあな、チェティ。向こうに戻ったら、状況を教えてくれ」 はや神官の上着を脱いでしまったネフェルカプタハは、いつもどおり飄々として、威厳の欠片もなくなっていた。  「分かった。今日は本当に、ありがとう」 残されたのは、チェティとイウネトだけだ。  岸辺を離れた小舟が水面に描く軌跡を見つめたまま、二人は、しばらく、無言に佇んでいた。  「……。」 なにか話すべきことはある気がするのだが、何も言葉が出てこない。  イウネトの義兄の抱えていた問題は明らかになり、一つの区切りがついた。  義父は人生の終幕として一つの決断を下し、一つの縁を断ち切った。  これから、この家族はどうなっていくのだろう。血の繋がりのある三人も、繋がりの無い一人も、みな、ばらばらになってしまった。  もっと良い方法はあったかもしれないが、壊れた破片の全てを元通りにすることなど不可能だった。  贖いきれない罪を犯し、魂が闇に沈んでしまったセケムラーも。  欲に支配され、家族を思いやる心を忘れてしまったラタウィも。  円満で平穏な家庭を失ってしまったイブラーも。  ――彼ら全員が満たされたまま終われる解決策は、何も無かった。  ただ、行き場の無かったイウネトに、居場所を用意できたことだけは――。  「あの、…チェティさん」  「ん?」  「わたしとの…婚約のお話は、このままでいいの?」 少女は、恐る恐るチェティを見上げる。  「身内から犯罪者が出てしまいました…。父さまは、商売をやめると言ってます。わたしが嫁げば、チェティさんにご迷惑が…。」  「んー、別に気にしないけど。ぼくは、しがない州役人で、三男で、特に出世を狙ってるわけでもない。風聞なんかを気にするような立場じゃないから」 微笑んで、チェティは少女の手を取った。  「帰ろうか。家へ」  「……! は、はい」 先を歩くチェティは気づいていなかったが、後ろでイウネトは、真っ赤になっていたのだった。  (結局、なにも役に立てなかったなあ…)  イウネトを実家に送り届け、役人の宿舎に戻りながら、チェティの足取りは重かった。  セケムラーを部屋から引っ張り出して話ができる状態にしたのはネフェルカプタハだし、興奮する彼を抑え込んで罪を聞き出したのはペンタウェレだ。  場を取りもったくらいで、特に何もしていない。ラタウィが余計なことを言い出して、もう少しで全て台無しにしてしまうところだったのを、止めることすら出来なかった。  どう考えても、足手まといの立場としか思えなかった。  宿舎の前まで戻ってきた時、彼はふと、入り口のところに見慣れた姿が立っていることに気がついた。  「あれ、兄さん?」  「おう。戻ってきたか」 片手を上げて、ペンタウェレが近づいてくる。セケムラーは一緒ではないところを見ると、事情を説明して、牢番に引き渡してきたあとらしい。  「執政官殿には、先に簡易的な報告をしておいたぜ。レジュネフを殺した犯人が自白したのでイウヌから連行しました、つってな。まあ、対岸の州の住民だし管轄は違うんだろうが、そこは役所の手続きで何とかしてもらう。」  「そうですか。ありがとうございます」  「…おいおい、何だよ、手柄を立てたってのに、そのしょぼくれた顔は。」  「手柄なんて。ぼくは、何もしてないですよ。たまたま知っている人が犯人だっただけだし…セケムラーが罪を話したのは、カプタハと兄さんのお陰でしょう。ぼくじゃ、何も聞き出せなかった。」  「なるほどなあ。お前、自分に厳しすぎるんだなあ…。」 ペンタウェレは、呆れたように呟いて、弟の額を指でつんつんと突いた。  「そういうとこは、他人に頼っても良いんだよ。あのクソ兄貴じゃあるまいし、何でもかんでも自分ひとりで出来るわけが無ぇっつの。お前は、情報を整理して組み立てて、正しい推測に辿り着いた。だからこそ、オレたちは結果を出せたんだ」  「……。」  「ま、そんな話をしにきたんじゃねぇんだ。」 周囲を見回してから、ペンタウェレは、チェティに向かって顎をしゃくった。  「ちょっと付き合え。セケムラーの言ってたことを、共有しておきたい」  「わかりました」 二人は、役所を離れて耕作地のほうへ向かった。  今日は、川の方から水の引き込まれた運河に水が満ち、普段は枯れている水路にも少しずつ水が入ってきている。  川の本流と水路を繋ぐ堰が開けられたのだろう。これからしばらく、畑は灌漑用水で水浸しになるはずだ。  その、水の流れのほとりを、ペンタウェレは歩いてゆく。  しばらく歩いた所で足を止めた。  運河のほとりだ。もちろん犯行現場とは別の場所だが、似たような地形になっている。  「お前たちに外へ出てもらってから、セケムラーと色々と話してな。…オレが要塞の守備隊にいた、という話をしたら、途端に泣き崩れて、勝手に物資をちょろまかしたことを謝られた」  「ああ、確か前に、レジュネフの部隊は素行が悪かったって言ってましたよね」  「実際、物資をちょろまかされてたのは事実だな。だが、従軍書記が書類を書き換えて不正行為に手を貸してた、っつーのは、まあ…想定外というか、そこまでしてるとは思ってなかったんで、こっちも驚いた」 ペンタウェレは、はあーっと大きくため息をついた。  「物資も、戦況の報告もそうだが、虚偽報告はそれ自体が重罪だ。おまけに撤退命令が出る前に勝手に部隊を抜けて帰還だぞ。そんな状況で都に戻ったら、どんな言い訳したって極刑は免れない。あの無能指揮官、よっぽど自分の血筋や後ろ盾に自信のあるお坊ちゃんだったか、頭の中でベス神が陽気に踊り狂ってるか、どっちかだよ。もしくは…」 ひとつ言葉を切って、彼は、じっと水面を睨みつけた。  「…これは、セケムラーの言い分を信じれば、なんだが、どうもレジュネフは、セケムラーを生贄に差し出して、罪逃れをするつもれだったんじゃないかって疑いがある」  「生贄?」  「実際には届いていた物資の配給が滞ったのも、戦況報告が間違っていたのも、全て従軍書記が無能だったせいにするつもりだった、ってことさ。――つまり、自分の指示したことでは無く、セケムラーが勝手に誤魔化したり、書き間違えたりしたせいだ、と。」  「え、でも、実際は違ったんですよね? どうして、そんなこと。それに、本人が横にいるのに嘘をつくなんて、無茶でしょう」  「――まあ、んなこと言ったら、普通、罪を押し付けられそうになっている側はキレるか、逃げるかするよな?」  「ですよね。誰だって分かります」  「それが、分からなかったんだよ。レジュネフは」 ペンタウェレは、信じられないという顔をしているチェティのほうを見やって、悲しげに微笑んだ。  「相手にも、自分と同じように心や感情があるんだと思っていない奴は、そういう思考をするんだ。戦場に出てくる高級士官なんて奴らは、目下に見ている人間のことを人間だとは思っていない。オレの守備隊のいた要塞の守備隊長も、そういう奴だった。オレらは使い潰せる家畜同然で、砦を包囲している敵の部族のことは、喋る野良犬くらいにしか思ってなかったよ。」  「……。」 信じがたいことだった。  それは、チェティの知っている世界の常識からは、大きくかけ離れている。  ペンタウェレは、続けた。  「だから、殺したんだ。このまま首都まで黙ってついていけば、罪を着せられて死刑になる。ただ、逃げたとしても、素性はばれているから、首都で罪人として名指しされればどのみち逃げられない。自分ひとりが逃げられたとして、父や家族は捕まる。逃げ場のない極限状態での選択が、『レジュネフを永遠に黙らせる』だったんだ」  「それは――兄さんの、想像ですか?」  「途中からはな。だが、合ってる自信はある。あいつの切れ切れの言葉には、積もり積もった”憎しみ”もあったが、より強く感じたものは”恐れ”だった。怖かったんだよ、本当に。自分だけが罪に問われて、」  「!」 はっとして、チェティは兄の顔を見上げた。  明らかに罪を犯していながら、誰も罪に問えない高官――  そんな存在とは、三年前の事件でも出会っている。  あの時は、問題の殺人以外の余罪のほうに証拠があった。そして、すでにその人物を疑っていた、より強い権限を持つ執政官パイベスがいたから、実際に免職まで持ち込めたのだ。  今回のレジュネフは、三年前に対峙したホルネケンよりずっと身分が高い。しかもセケムラーには、彼一人しか頼れる者はいなかった。  たった一人では、罪に問えるだけの証拠を揃えることは出来なかったし、自らを弁護することなど出来なかっただろう。  追いつめられていた彼に残された選択肢は、それほど多くなかったのだ。  「あいつが、どうやってレジュネフを殺したのかも一応聞いたが、知りたいか?」  「ええと…。生々しくない程度に、お願いします」  「簡単に言うと、レジュネフが用を足しに運河に降りたところを背後から剣で殴ったらしい。刺した、は言わなかったな。まあ使い方も分かって無くて、力任せにやったんだろう。で、その当たりどころが悪くて…いや、この場合は良くて、か。レジュネフは、いい感じに気絶して運河に転がり落ちたんだそうだ。だから、正確な死因は、溺死だよ。気絶して水に沈んで、それを無我夢中で殴りまくったらしい」  「……。」  「あとは解体作業だ。レジュネフが死んでることに気がついた時には、無意識に解体を始めてたと言っていた。奴の実家は家畜の卸売をしてたわけだし、手順は、見たことがあったんだろう」  「あの、運河の場所は? 知っていて、あそこを犯行現場に選んだんじゃないんですか」  「どうも違うらしい。偶然、殺したのがあの場所だった。ただ、実家から、黒い牛をメンフィス大神殿に納品する付き合いで、神殿の管理する牧場の辺りに行ったことはあると言っていた。あの運河が屠殺場になってることも、前から知っていたんだ。それで、咄嗟に思いついたんだろうな。」  「解体したのは、発見を遅らせるためですよね」  「さあな、そこまで考えてたのかどうか。お前が見つけた死体の頭蓋骨は、砕かれていたんだろう?」  「うん」  「頭の骨ってのは、とんでもなく硬い。よっぽど殴らないと金属の剣でもカチ割るなんて無理なんだ。自分に罪を着せるつもりだった憎き上司をぶちのめして、それでもまだ足りなかったんじゃねえか、って、オレは思う」  「憎しみ、――ですか」  「そう。憎しみだ」 ただ殺すだけでは足りないほどに、セケムラーは、溜まっていた感情の全てを叩きつけたのか。  さぞかし、凄惨な場面だったのだろう。  そして、全てをぶつけ切って抜け殻のようになっていたところを、スリの男と出くわして、凶器に使った剣を渡し、自分は罪悪感に苛まされたまま、実家へと戻った。  セケムラーの行動を追っていくと、彼が保身など考えていなかったことが透けて見えてくる。  死体をバラして運河に沈めたのは、殺人の発覚を恐れたからでは無い。  もしも彼が、もっと頭を使って入念に後処理をしていれば、ことの発覚はもっと遅れ、身元を辿れるような手がかりは、永遠に失われていただろう。  彼は、ただ、誰にも裁かれずに罪から逃れようとする男に、必死に食らいつこうとしていただけなのだ。  「やりきれないですね。罪悪感のない者は平然として、罪悪感に耐えきれなかった者だけが苦しむなんて」  「そうだな。ま、そんな戦場だったからこそ、街道の守護神ホルスも、遠征隊に勝利は授けてくださらなかったんだろうよ」  足元を、運河の水が音もなく静かに流れてゆく。  そこには空の青い色が映り込み、岸辺の緑と混じり合い、世界に色をつける。  そりまで、足元の運河を見つめていたペンタウェレは、視線を上に向けた。運河に水の流れ込む大元、川の本流のあるほうへと。  その横顔を眺めていたチェティは、ふと、船着き場で出会ったかつての兄の部下、ヘジェプが言っていたことを思い出していた。  過酷な戦場を経験した者は、変わらずにはいられないのだ、ということ。  記憶の中にある昔のペンタウェレのことは既に曖昧で、今と何か違うところがあるか、見当がつかない。母なら何か気づいたところがあるかもしれないが、何も言ってはいなかった。  それに、一度も実家に泊まって行かなかったから、ヘジェプのように夜の寝付きが悪いとかは、知りようもない。  ただ、何かが違うことだけは、分かる。  昔のペンタウェレから何かが欠け落ちているような、そんな感覚が。  「――なあ、チェティ」 ふと、彼は、何気ない口調でぽつりと言った。  「オシリス(ウシル)を殺した時、セトは、どんな気持ちだったんだろうな」  「えっ? セトって…あの、セト神のこと?」  「ああ。実の兄貴を殺して死体をバラして、川に流したセトのことさ。セケムラーのやったことは、悪神の神話の再現だろ? まあ、セケムラーとレジュネフは兄弟じゃねぇし、殺した死体を棺に入れてもやらなかったようだが」  「それは…。」 返答に困る質問だった。  それにしても、ペンタウェレの発想は、ネフェルカプタハと同じなのだった。  牧草地で死体を見つけた時、「まるでオシリス神の死体のようにバラバラだ」とは、ネフェルカプタハも言っていたことなのだから。  「…そもそも、レジュネフはオシリス神のように豊穣を司ってはいないし、人間に慕われた善神でもないですよ。オシリス様になぞらえるなら、せめて、部下に慕われた人が殺されてからでしょう」  「あー、ははっ。確かにな」 声を立てて笑ってから、彼は、真顔になった。  「んじゃあ、クソ兄貴なら適任だ。ひとつ間違えば、オレがあいつを殺してバラしてた可能性だって、あるんだからな」  「えっ…?」  「セケムラーの話を聞いてるうちに、何だか、家を出る前のオレに似てる部分があるなって気がしたんだよ。――昔のオレは、我慢できないくらいジェフティが嫌いだった。完璧で、難癖のつけようもなくて、いちいち正論で殴ってくる。頭が良すぎて、人の感情が分からねぇんだよ、あいつは。レジュネフとは別の意味で、人を人と思ってない」  「そ、そんなことは…。」 慌てて、チェティは援護に回った。  「確かに冷たく感じる時もありますけど、昔に比べると少しは物腰が柔らかくなりましたよ? ぼくだって、学生だった頃は叱られてばっかりだったんですけど、最近は、褒めてくれることもあるし…。」  「そうか? まあ、もう、どうでもいいんだけどな」  「”どうでもいい”?」  「この十年、夢中で生きてる間に、何であいつをあんなに嫌ってたのか、良く分からなくなっちまった。なあチェティ、お前、海を見たことがないだろう」  「…うん」  「オレは、見た。果てしなく、どこまでも続く水だらけの場所。塩辛くて波打って、見たことのない魚や鳥が住んでるんだ。砦の周りの広々とした沙漠も、そこに暮らしてる、この国の人間じゃねぇ連中にも会った。変わった格好してたり、言葉が通じなかったりな。あのクソ兄貴の知らないものを、今のオレはたくさん知ってる。オレはもう、書庫に籠もってるだけの書記様とは違う世界を生きてるんだ。だから――」 だから、”どうでもいい”。  ペンタウェレは、視線を空のほうに移していく。  天を見上げる彼の表情は穏やかで、眼差しは、どこまでも澄んでいた。  (――ああ、そうか。無くなったのは、…あの頃のぎすぎすした感じだ) ようやく、チェティも思い出した。  覚えているペンタウェレの記憶のほとんどは、長兄のジェフティと言い争い、言い負けて、むっつりしている不満だらけの顔だった。  口をとがらせて、ぎらついた眼差しをジェフティに向けていた。或いは、椅子を蹴って部屋を出ていった。  あの頃の、青臭く尖った雰囲気は、今の次兄には無い。厳しい環境に耐えて生き抜いてきた揺るぎない自信と、力強さだけがある。  「セトは知るべきだったんです。兄を殺しても、代わりにはなれないと」 チェティは、見つけた答えをゆっくりと口にした。  「神にも、人にも、それぞれが自分の成すべきことや役割や立場を持っていて、完全に代わりになれる者はいない。ペンタウェレ兄さんはジェフティ兄上にはなれないし、逆も然りです。だから、…兄さんの選んだ道は、正しかったと思います」 少し驚いたような顔で振り返ったペンタウェレは、やがて、ふっ、と口元に笑みを浮かべた。  「あの神官の友達みたいな、偉そうな口を利くんだな。お前は」  「えっ?! いや、今、良いこと言ったつもり…だったん、ですけど…」  「まあ、良いことは言ったよ。うん」  「えええ、何ですがその反応…。あっ、そうだ。兄さん、戻ってきてからまだ一度も兄上に会ってないですよね? ”どうでもいいい”んなら、せめて顔くらい会わせても…」  「やーだね。殺したいほど憎いっつぅのはもう無いが、それはそれとして、あいつとは根本的に合わねぇんだよ。どうせ一言目で喧嘩になるぜ。狒々神の賽に賭けてもいいね」  「そんな、子供みたいなこと言って…。」 並んで役所のほうへ戻っていく兄弟の足元には、真夏の太陽に照らされて温くなった黒い水が静かに満ちている。  オシリスの死は、増水の始まるこの季節。  そして水が引いた後、大地はオシリスのごとく再生され、再び萌えいづる緑を育むのだ。
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