人形少女

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 救われる。祖母に会える。離す、離せ。簡単なのに。離せば済むのに。  依然として、両手は頑として開かない。自然と息は荒くなり、激しく肩が震える。心臓が口から漏れそうな位に激しく鼓動し、その心音で以って自らが酷く緊張している事を知る。口が乾く。脳が何かを知らせるように金切り声を上げ、少女にしか聞き取れないその叫びは耳鳴りとなって鼓膜を揺らす。  強張る身体。しかし祖母に逢いに向かう決意は僅かも揺れず、思い通りに動かない身体によって寧ろ、やはり心は別の場所に在るという確信を得る。  精神は肉体に宿っていなかった。そして祖母の精神がこの世界に留まっているのならば、少女を孤独にしておくはずがない。つまり今、少女が寂しい事こそが、ここでは無い、人間のみが辿り着ける素晴らしい世界が確かに存在し、祖母がそこで少女を待っている証であるのだ。  躊躇う理由は無いはずだ。安寧は約束されている。目的を果たす為にしなくてはならない事だってもう多くはない。縄から離した両手を胸の前で組み、祈りを捧げただ一歩、片方の足を踏み出すだけ。平易である筈だ。  逢える、もうすぐ逢える。  希望の為か、緊張の為か、脈打つのを尚も速める心臓が肉体と精神の一体何方に支配されているのか、少女にはもう分からない。安心だ。大丈夫だ。とても簡単なはずなのに、それでも縄から手が離れてくれない。  上手にいかない事に堪え兼ねたか、少女は決して何にも悟られぬよう、小さな声で泣き始めた。しかし頬は濡れず、瞳すら乾いたままである。何か決定的に失調してしまった感覚が強くあるが、崩れたものが何かも、壊れたらどうなるのかも分からない。  足元の床が底の視えない穴になってしまった様に感じて、少女はそっと瞳を閉じた。やはりどうしても祈る必要があるようだ。  窓から月も去り、星の明かりも薄く、今祖母の部屋はほとんど光がない状況であったが、それでも目を閉じると他の感覚に敏感になる。ワナワナとした痺れを感じるのは、長い時間全身に力を入れているから。顔面に蔓延る毛細血管がひりついて、頬の上で膨らみ表皮を後方に引っ張る。身体はあくまで硬直を続け、緊縮に腕や脚、腹や背の筋繊維はとうに悲鳴をあげているだろう。ぶるぶると震える程に全身の筋肉は縮み続け、それでも少女が痛みを受容しないのは、肉体が緊急事態を知らせる信号を送り続けているからか、精神が徐々に別の世界へと解離し始めているからか。  少女は決して声には出さず、口の中だけで祈りはじめた。 天にまします我らの父よ…  心の中、祖母の穏やかな顔が浮かぶ。 みこころの天になるが…  絶え間ない緊張の中、ふと、祖母の匂いがした。 我らに罪を犯すものを…  作業に夢中で気が付かなかったのだ。ベッド、蝋燭、お気に入りの寝巻き… 我らを試みにあわせず…  少女の強張りを解くものが、この部屋には溢れている。 国と力と栄えとは…  何より祖母はきっと、少女の頭を優しく撫でてくれるだろう。 アーメン…  信仰心ではない。行為だけならば少女はこれから罪を犯そうとしているのだ。それでも、何か赦されたような気になったのは祖母への厚い信頼によるもの。少女は漸く真に穏やかな状態となった。
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