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ビルを出る。路地にはビル風が吹き抜けていて酷く寒い。灰色のビル群が歪に切り取る青空を見上げた。
昨日、スミス氏から聞いた劇団への入団に関わる説明を思い出す。
わたしを劇団へ誘ったあと、スミス氏はこう言ったのだ。
「君の入団は大歓迎だ。ただ、レッスンを受けてからじゃないと、オーディション会場には送りだせない。劇団の看板を背負って行ってもらうわけだから、それなりの演技力を携えてからじゃないと」
そのときわたしの頭の中は、俳優としての稽古をつむ自分の姿で埋め尽くされていた。小学生の頃、クラス劇で主役を演じて、担任教師に「あなたは女優さんみたいね」と褒められたことがあった。きっとわたしはこの道を行く運命にあったのだ、と福音を受けたような気持ちになっていた。
わたしが未来の妄想に浸っていると、スミス氏が再び口を開いた。
「そのために、二百万円かかる」
「二百万?」
わたしは鞄の中身に思いを馳せる。鞄の中には、一つ前の仕事で獲得した現金二百万円が入っている。
「そう、二百万。今日前金でもらえれば、明日からすぐにレッスンに入れる。エリナさんの場合は詐欺で育んだ演技力があるから、きちんとレッスンに励んでいけば、半年後には僕みたいに映画に出られるはずだよ。そうしたら簡単に、二百万円なんてペイできる。それどころじゃない。ゼロが一つ多くなって戻ってくるんじゃないかな」
彼は言い、
「嘘は、正しく、使うんだ」
と、わたしに言い聞かせるように一語ずつ口にした。
「え、でも、ちょっと考えさせてください。少し時間がほしいです」
「いや、実は今日までなんだよね、今期の申し込み期限がさ。僕の劇団って今人気急上昇中だから、入団希望者も多いんだ。だから来期以降、芸能関係者の紹介だけでずっと満枠になる可能性が高い。それから後悔しても遅いよ?」
スミス氏がわたしをじっと見つめた。彼の黒縁メガネに自分の顔がうつっていた。その顔に問うてみる。この先ずっとイイヒトを騙し続けるのか? それとも俳優として生きるのか?
問いながら、胸の中で答えが決まっていることに気が付く。
「わかりました」
彼に向かって深く頷き、鞄から現金二百万円を取り出した。
結局わたしはスミス氏から二百万円を得るのではなく、二百万円を払って喫茶店を出た。しかしこれは輝くミライに向けた新しい一歩だ。これからは、嘘を正しく使って生きるのだ! そんな思いを抱きしめながら、現金のなくなった空っぽの鞄を肩から下げ、勇み足で自宅に帰った。街も、自分も、すべてが新しく生まれ変わったような、そんな清々しい気分だった。
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