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何事だ? 頭の中が一瞬真っ白になり、俺ともあろう者が硬直してしまった。
ベアトリーチェは床にしゃがみ込み、自分を抱きしめて体をふるわせている。
ここまで来ておいて、なんだこの反応は。
もしや……美人局? 俺から金を巻き上げるために誘惑するフリをしていた?
「てめ……」
「くも、くも、くもーーーー!」
だが様子が違った。彼女はふるえる指で俺のジャケットを指さす。
「くも? ……なんだコイツか」
見れば俺の特注品のキートンの肩に小さな蜘蛛が乗っている。
俺の肩に乗るとは、百年以上早い。俺は胸ポケットからチーフを取り出し、蜘蛛を払った。
蜘蛛は床に落ちると、サカサカと足を動かしてベアトリーチェの方へと移動する。
「いやぁぁ! 蜘蛛、蜘蛛来ちゃう!」
兎がぴょんと跳ねるように立ち上がり、俺の背の後ろに隠れるベアトリーチェ。
「ふ。かわいい女だ」
持ったままだったチーフで蜘蛛を掴み、部屋の外へ追い出した。
「助けてくれてありがとう」
ドアを閉めて向き直ると、心底ほっとしたように微笑む。妖艶な女のあどけない表情は心をくすぐる。
「蜘蛛が苦手なのか、ベイビー」
「虫全般が苦手なのよ」
「そうか、俺のマンマもそうだった」
「そうなの? アタシみたいに小さな虫でも騒いだ?」
「ああ、それはそれは凄かった。虫を見ると断末魔みたいに叫んで、ぶるぶるふるえながら俺を呼んだよ」
ソファに並んで腰掛け、他人に話したことがない母の話をした。母は男勝りの気の強い女性だったが、虫だけは取り立て屋よりも殺し屋よりも怖いとふるえていたような人だった。
「わかるわ。虫たちの意志や目的ってわからないから、次にどんな行動に出るかわからないじゃない。予測不能って怖いものよ」
「母もそう言っていたな。俺は虫の意志や目的なんて考えたこともないね。生きているモノはすべて同じだ。害にならないなら捨て置く、害があるなら潰す、それだけだな」
「シンプルなのね。でも……少し怖い。アタシはどちらになるのかしら」
怖いと言いながら、ぽってりとした赤い唇の両端はキュッと上がっている。
虫は赤を嫌って避けるというが、意志ある人間の俺は、その赤に親指を滑らせた。
ベアトリーチェは蝶のような女だった。
妖艶でいて可憐。そしてどこか儚げで危なっかしく、捕まえてカゴの中に閉じ込めておきたくなる。
だがふわりと寄ってくるのに、捕まえようとすると羽と触角をふるわせて飛び立っていき、捕まえられない。
初めて会った日、俺を待っていたと言いながらも連絡先を寄越すことも聞くこともしてこないから、彼女に会うにはブルーノ親父の店に行くしかない。
俺から連絡先を渡すか聞く? そんな格好のつかないことはゴメンだ。
だが、胸がふるえる。
仕事終わり、店の奥の席でベアトリーチェの姿を見ると、胸が熱くなってふるえる。
自然に目尻が下がり、ハッとして表情を作り直す。
目ざとい彼女は俺の不甲斐ない顔に気が付いているのだろう。それこそ蝶のようにひらひらと手を振って、俺を迎える。
そうして俺もまた、蝶のようにベアトリーチェとの甘い時間に羽を休めるのだった。
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