アクアティリスの故郷

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 工場群と国道に挟まれた広い歩道は首都高高架に見下ろされながら南北へと延びている。海の匂いを嗅ぎながら軽快にペダルを漕いでいく。工場の敷地が途切れる箇所で岸壁へとハンドルを切る。灯りのないマリーナの前、波に洗われる橋を渡って自転車を降りる。  かつて臨海緑地と呼ばれた場所。真ん中の一段低いグラウンドは今や見事な潮溜りだ。潮溜りを迂回すると自転車のライトに朽ちかけた手すりが浮かび上がる。うおちゃんを歓迎するかのように墨色の海は波で鈍く光を返す。  ちゃぷりと潮が足を洗う。スニーカーはあっという間に水を通す。生ぬるい、満ちていく途上の夏の海水。  十年ほど前まで海沿いの工場は全て稼働していたと聞く。上昇を続ける海水面に耐えきれずに移転が始まり、昨年ついに全工場が移転を果たした。今では大潮のたびに国道まで浸水し、自動車は海水を雨水の如く蹴散らして進むようになっていた。  踝に波飛沫を感じながら私は自転車を手すりに寄せる。うおちゃんは待ちきれないとでもいうようにカゴから飛び出す。ぽちゃんと大きな音をさせ、波の合間を泳ぎ始める。私はベンチに腰掛ける。手持ちのペンライトの淡い光の輪の中で、うおちゃんが遊び回る様を眺める。  うおちゃんは人魚だ。分類学上の名称ではホモ・サピエンス・アクアティリス。十六世紀に西洋世界に発見された現生人類の亜種。赤道付近の海に住むという準絶滅危惧種。私と叔父さんは静岡の清水の魚市場でたまたま見つけた。市場の客を好奇心旺盛と言った様子で水槽の中から眺めていた。漁網に入っていたらしい。水族館か研究施設か放流か、話されていたのを引き取ったのだ。  うおちゃんはカタコトながら日本語を解した。根気よく聞き出したところ、近縁の陸の人の言葉を幼い頃に学ぶらしい。逃げる気はさらさらないようで、海を恋しがるが放されても堪能すると戻って来る。だから今は一緒に家で暮らしている。叔父さんが不在の間の、同居人仲間として。  うおちゃんはテトラポットの防波堤の陰で気持ち良さそうに泳いでいる。うおちゃんのそばに幾つか丸い影が見える。横浜にも人魚がいたらしい。  そういえば。私はスマートフォンを操作する。出がけに目に付いたテレビの画面を思い出す。ニュース、ハヤシミツハル。二単語の検索で情報はあっさり見つかった。  ――ガーナで武力衝突。邦人一名死亡。  アフリカの観光地では無い国で日本人の同姓同名がどれだけいると言うのだろう。散歩を堪能したうおちゃんに足を叩かれるまで、私の頭は真っ白だった。
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