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「私の夢? 私の夢はねぇ……〇〇のお嫁さんになること!」
輝くような娘の笑顔に、父親は二つの意味で切ない気持ちになった。一つは、七歳の娘が既に他の男に心を奪われていること。そしてもう一つは――
「残念だけど、それはちょっと叶いそうにないな」
「どうして?」
「おまえは王家の娘だからね。純粋に自分が好きな人と一緒になることは、実はとてもとても難しいことなんだよ」
子供だからとその場限りの適当な受け答えをしなかったのは、この子が他の誰よりも聡い子供だと知っていたからだ。案の定、自分の夢を否定されても年相応に泣き出すような真似はしなかった。
「じゃあ、どうしたら良いの? 駆け落ち?」
「駆け落ちはできれば選んでほしくないな……」
現実的なことを口にする娘に苦笑してから、別の可能性について言及した。
「おまえにとって或いは駆け落ちより難しいかもしれないけど、正攻法なら一つある。それは――」
父のその時の言葉は、それから彼女にとってただ一つの道標になった。
***
レプラカン大陸東の小国、蒼月。
水と山々に囲まれた自然豊かな風土は独自の四季が彩り、この地を治める桜神一族は名君の家系として万民に慕われていた。
櫻羽城の中庭で、定例の鍛錬をしていた白く華奢な手を不意に止めた。そのまま刀を握った手ごと下ろし、ほっと息をつく。その様子に、樹木の陰から気遣うような声がかかった。
「姫様、どうかされましたか?」
「今朝はここまでにする」
常に美しい拵えと共に携えている愛刀、雪名月――刃紋がまるで、月下に雪が降りしきる様のようであることが由来――をパチリと鞘に納め、白のシンプルなひざ丈ドレスの裾を整えながら第三王女の椿姫は黒く艶やかな長髪を背に払った。常に側近として護衛として影のように控える陽炎は、姿を現さないまま再び声だけで応じた。
「いつもより随分お早いようですが」
「うん……実は父上から呼ばれているんだ。朝の会議が終わった頃、顔を出すようにと」
「国王陛下から? 姫様お一人でしょうか」
「あー、どうかなぁ。姉上方とはぜんぜん話してないし、わかんない」
妙に普段より舌足らずな様子に不安を覚えつつも陽炎は会話を続けた。
「それは、昨日ローズハイムから届いた書状の件でしょうか?」
「多分ね」
レプラカン大陸西の同盟国、ローズハイム。代々女系国家として知られるこの国は後継者不在の問題で今大きく揺れていた。5年前に亡くなった、椿姫の実母であるリセリアが現女王の実の妹であることもあり、姻戚関係にあることから蒼月国内でも今後の展開に関心が高まっていた。
「昨日、叔母様から父上充てに親書が届いたらしい。母上が亡くなってからは初めてのことだよ」
「親書、ですか。それは……」
「行こうか」
迷いない足取りで東屋から王宮に向かう主の背を、陽炎は木陰から瞠目するように見つめた。細身ながら凛とした後ろ姿を、いつもながらに美しいと思った。
椿姫が城内に入ると、すぐに次姉の美袋が長い薔薇色のドレスの裾をさわさわ言わせながらすり寄って来た。
「椿姫ちゃん」
「姉上」
「お父様のところへ行くの?」
「はい。姉上は?」
「私は呼ばれてないわ……椿姫ちゃんだけみたい」
この姉が呼ばれていないのなら、長姉の揚羽も同様だろう。妹一人が父に招請された状況を案じて、ここで椿姫を待っていたらしい。
「何の用事か、聞いていない?」
「そうですね、はっきりとは」
ローズハイムからの親書であることを何となく伏せると、美袋は途端に不安そうな顔をした。
「嫌だわ、後からお姉様と私が一緒に呼ばれたりしないかしら」
眠いせいかとろりとした目で不平を漏らしながら首をかしげる。何かあれば揚羽と二人きりになることをできるだけ避けたいことが丸わかりな姉に、椿姫は苦笑するしかなかった。
「あら、どうして笑うの?」
「……なんでも。ではもう行きますね」
この腹違いの姉のおっとりしている性質が、同じ母親を持つ長姉には殊更苛立つものに感じられるらしく、いつも当たりが強いのは否めなかった。しかし椿姫にとっては、自身と真逆にも拘らず何故だか嫌いになれなかった。
謁見の間に入ろうとすると、門番に控えめに止められた。
「お待ちを、姫様。国王陛下は、私室の方にいらっしゃいます」
「私室?」
謁見の間ではないということは、構えていたほど大した話ではないのか。いささか拍子抜けして案内された次の間から部屋に入ると、父王である桜神魁利は、緊張感のない様子で窓辺に座っていた。
「失礼します」
「ああ……来たか椿姫」
穏やかに微笑むその様子は、完全に父親の顔をしていた。職務に携わっている時は、近寄りがたい雰囲気を醸し出していることを考えると、親書はもしかしてと期待したような内容ではなかったらしい。それが顔に出たのか、魁利はふっと微笑った。
「そんなに露骨にがっかりされては、義姉上に申し訳がない」
「そんなつもりもありませんが――で、叔母様は何と」
「うん。ベアトリクス女王陛下から直々に、おまえに大切な話があるので、ぜひとも自国まで来て欲しいと」
「大切な話、ですか」
親書を手渡され、ざっと目を通したが確かにそれ以上のことは書かれていなかった。
「どんな話でしょうか?」
「どうしても憶測にはなってしまうが、後継者の話かもしれないな。親族であるおまえの意見も聞きたいといったところだろうか」
「意見だけ……ですか? わりと悠長ですね」
「まあまあ、そう事を急くものではない。義姉上とて、すぐに逝くつもりもないのだろうし」
「私だって、そんな不敬なことは考えてもおりません」
むっとする娘に、魁利は身振りで落ち着くよう促しながら改めて訊ねた。
「で、どうする。行くか?」
「無視するわけにも行かないでしょうね。行きます」
「そうしてもらえると、私もありがたい」
姻戚国としての義務を果たせるとほっとした魁利は、表情を曇らせている娘にそっと耳打ちした。
「そんな顔をしなくても、おまえの留守中に私が急死したりはせんよ。まだまだ跡目の問題は起きないから、安心して行ってこい」
「絶対ですね? 約束ですよ」
「うんうん、約束する」
キッと真面目に念を押す娘に、魁利は少し呆れたように苦笑した。
「国主になるという望み……未だ健在なのだな」
独りごとのようにされたそのつぶやきは、扉の閉まる音にかき消されてしまった。
扉から出ていく椿姫を、呆れたもので未だ廊下で待っていた美袋は慌てて追いかけた。
「あ、待って椿姫ちゃん!」
椿姫は立ち止まらず、首だけ傾けて姉に応じた、
「どうしました、姉上? 時間がないので手短にお願いします」
「お話は済んだの? お父様はなんて?」
「ローズハイムの叔母が、私に相談があるので来て欲しいと。明日の朝には出立します」
「ローズハイムに? そう……でもすぐ帰ってくるわよね?」
「そのつもりですが」
「それなら良いけど」
そう言いながら明らかに長姉と二人で残されることに消沈している次姉に、椿姫は少しばかり優しい言葉をかけた。
「お土産をたくさん買ってきますよ。あちらにしかない薔薇の石鹸や、香水を」
「薔薇の? 本当に? 嬉しい、楽しみにしているわね!」
それだけであっさり元気になった姉を実にちょろいと思いながら、椿姫は自室に戻って支度を始めた。
陽炎と、もう一人の側近である雛芥子を呼ぶと、軽く事情を伝えてできるだけ簡易な荷造りを頼んだ。
「今回のこと、正式な要請でない以上、姫様が期待していたものとは違うのでしょうか?」
「多分ね」
椿姫は持って行く書物の選別をしながら答えた。
「女系国家であるローズハイムは、長らく跡継ぎ問題で大いに揉めていた。女王の娘二人は国に残すことなく他国へ嫁がせ、直系の王族は長男である王子だけになった今、血縁を優先し女系であるという縛りを排すか、それとも何をおいても代々女系という伝統を守るか……国内でもさぞかし議論は尽きなかったことだろうな」
「申し分ない候補が二人もいたのに、他国へ嫁がせてしまったというのは大変に不可解ですね」
「それについて、叔母様は残念ながら二人とも資質がなかったと説明しているそうだよ」
「資質……ですか」
「そして一方で、私の亡くなった母は現ローズハイム女王の実の妹だ。つまり私は外国人ながら直系の血を引く、唯一の女子。しかも生国では三女、第一王位継承者ではない。すべての問題を同時に解決する因子たり得るというわけで、後継者として最有力候補じゃないかと父上も私も密かに考えているし世間でも噂が立っているらしい」
「正統な血を引いた実の娘を除外して、わざわざほとんど会ったこともない姪を後継ぎにする理由がありますか?」
「だからそれは、資質とやらによるんじゃないかな?」
「自信がおありなんですか?」
「わりと」
何の根拠もなくにこりと微笑う椿姫がひどく楽観的見えて、陽炎は密かにため息を吐いた。
身支度を終えると、室内に音もなく陽炎が現れ、雛芥子と共に並び立つ。十代と思しい若々しい外見をしながらも、二人は本来の月野葉一族である忍びの顔をして鋭い瞳をこちらに向けていた。口火を切ったのは、雛芥子の方だった。
「本当によろしいのですか?」
「何が?」
「わずかでも、この国を留守にしても。私たち、これまで来る日のため準備して参りましたのに」
「大げさだな……すぐに帰ってくるよ」
「そうですわよね、あの小生意気な揚羽様を、生首にして城門に晒して差し上げるのは私の役目ですもの」
「おまえはまたそういう、人に聞かれたら面倒な冗談を。誰もそんなことを命じてやしない、たとえ争っても血を流すつもりなんてないよ」
「革命と言うものは、無血の方がはるかに難しいんですよ?」
「革命じゃなくて、王位継承権争いだよ。王室関係者の話し合いと投票で決まるんだから、どちらかと言えば影での陰湿な取引とかが横行しそうだよね。嫌だな、そういうの得意じゃないんだけど」
「……」
「何さ。言いたいことがあるなら言ったらどう?」
雛芥子の挑発するような言い方には乗らずに、一人無言を貫いていた陽炎は冷静に言葉を返した。
「何も。俺には姫様のご意思がすべて……ただそれだけだ」
そう言うと、陽炎は音もなく廊下へと姿を消した。
「本当に可愛げのない……誰に似たんだか」
「おまえが言うな」
雛芥子の呟きに、椿姫は何故か呆れたような
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