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Ⅴ
「アル。」
静まり返った施設内。今日はこんな時間まで、執務室にローレンスが座っていた。
閉められた扉の向こうにはニコルソンが立っている。消灯後にもかかわらず、ひっそりとここまで彼に連れられてきた。
「掛けてくれ。」
「…………。」
なつかない野良猫のように鋭い目を向けながら、ゆっくりと腰掛ける。彼はいま何を考えているのか、ザックならわかるだろうか。
「……こないだは悪かった。」
ローレンスが静かに切り出し、いつも食堂で使うプラスチックのカップにうつしたコーラをそっと差し出した。これは禁止行為である。アルは無言のまま、床を見つめている。
「少し感情的になっていた。世話係を断るのは君の自由なのに、ずいぶん横暴な押し付けをしたものだ。」
「で、また性懲りも無くスカウトのために呼び出したってわけか。わざわざこんな時間に呼びつけて、そんなもんを出してきて、精いっぱいの特別待遇のつもりか?あんた、ちっと優しくすりゃあ俺が懐柔されると思ったら大間違いだぜ。俺は弱みにつけこもうとする奴が大嫌いなんだ。」
アルは、やはり怒っている。まともに話も聞かずに感情をあらわにした自分に対して、裏切られた気分でいるのだろう。
「……君は、僕のことが嫌いか。」
「聞くまでもねえだろ。」
蔑みの目で、吐き捨てるように答えた。ローレンスは小さくうなずき、曖昧な薄笑いを浮かべて、うつむいた。いつもの余裕に満ちた表情ではなく、唇を軽く噛んで、目線も落ち着かない。いつもなら何を言っても言い返されるが、今は何と返すべきか、その言葉を探っているのだろうか。今夜の彼は疲弊しているのか、いやにしおらしく感じられた。
「こないだの話の続きをしたいわけじゃない。その件はもう済んだことだ。……謝ることに慣れてないんだ。夜遅くに悪かった。」
「…………。」
「これは特別待遇というより、僕なりの詫びだ。僕からではこれが限度だ。外の世界でなら、食事をご馳走するくらいはしてやりたいが……それはいずれ、ということで、保留にしよう。」
ときどき面会で差し入れられるコーラは、頭がしびれるほど美味いと言って、いつも看守の見守る中で味わって飲んでいる。差し入れられたものを部屋でひとりでゆっくり味わうことはできないが、アルが面会で楽しみにしているもののひとつである。ローレンスはなぜそんなことを知っているのだろうと思うが、なぜかと言えば囚人の管理が彼の仕事であるからだ。味気ない理由ではあるが、だから知っていてもおかしくはない。
「飲まないのか?」
「何が盛られてんのか教えてくれたら飲んでもいいぜ。」
「面会はまだしばらく無いだろう。今のうちに味わっておけ。」
「あんた、1度それを飲んでみせてくれよ。」
「本気で疑ってるのか?」
「あんたは何をするかわからない。」
アルがいつもの挑発的な顔を向けると、ローレンスが人さし指でデスクをコツコツ鳴らし、やがて小さなため息を吐いた。そしてそっとコップを手にすると、眉間に皺を寄せながら数秒液体を見つめ、口をつけると渋い顔で喉を1度だけ動かした。コップを置くとくちびるを噛みしめ、眉根を寄せたままかすかに目元を赤くしていた。
「……本気で何か入れてたのか?」
アルがぽかんとした顔で、苦悶するローレンスを見やる。
「僕は甘い炭酸が大嫌いなんだ。コーラはいちばん嫌いだ。こんなものを美味いと思える神経がわからん。」
ハンカチに、飲み込めなかったかすかな残りを吐き出す。
「飲めよ。こんなものが、君には美味いんだろう。」
見たことのない険しい顔で、コップを突き出す。アルはそれをそっと受け取ると、ようやくニヤリと顔を歪めて見せた。
「ピザ食うとき何飲むんだ。」
「そんなもの何年も食べていない。好きじゃないからな。」
「……あんたと食事に行くことがあったとしたって、永遠に店なんか決まらねえだろうな。」
「そのときまでにその子供じみた味覚を直しておけ。」
自分から謝罪のつもりで呼び出しておいて、生意気な顔で吐き捨てる。ようやく、いつものローレンスに戻ったようだ。アルはそれを見て、コップを傾ける。ローレンスとは違った意味で眉根を寄せ、それは頭に電流が流れたかのような美味さであった。
「こんなもんがこれだけ美味く感じるんだから、ムショ暮らしはやめらんねーな。」
「馬鹿が。さっさと飲んで、もう行け。」
「そりゃないぜ、てめえで呼びつけて結局それか。こないだとおんなじだ。」
アルの顔は、それでも穏やかだった。このときばかりは、ザックの解析を介さずともわかった。アルはどうやら喜んでいるらしい。気難しい男だが、若い男であるがゆえに単純だ、とローレンスは思った。
ニコルソンに連れられて部屋へ戻っていく彼の背中を見つめる。そのまま携帯を取り出し、電話をかけた。相手はザックだ。
「……いかがでしたか。」
別の仕事の都合で来られないが、彼は今日も遠隔で2人のやり取りを観察してくれていた。
「素晴らしい。」
と、ザックがひと言返した。
「あれでも?」
「いやあ、やはりあなたそのものの効果も大きいですが……あの、食事のくだりなんかはかなり彼の心に揺さぶりをかけましたな。」
「あれは……少し不用意なものでした。」
「あれくらいのエサは撒いておかないと。あくまでも大事なのは投石です。」
消灯後の静かな時間に呼び出し、しおらしい謝罪の姿を見せ、禁止事項ではあるが彼の好物を与えてやる。好物には手を出しても出さなくてもどちらでも構わない、ともかくそれを用意してみせることが肝要である。
そして、名前をきちんと呼んでやる。世話係のことには触れず、今夜はただそれだけでいい。そのようにザックに言われ、今夜の「面会」を遂行した。何を話すべきかは、ローレンスに委ねられていた。
「あなたと彼がひとつのコップを分かち合ったことも大きい。彼には毒味のつもりでしょうが、はからずもあの無意識のおこないで、彼はあなたに再び気を許しました。彼にはあのコーラがいつも以上に甘美に感じられたでしょうな。」
「ずいぶん単純だ。」
「そんなもんです。」
「次はどうすれば?」
「次は……少し間をおきましょう。立て続けの投石は好ましくない。しばらくはいつも通り、彼の様子を観察していてください。しかしあなた方の雰囲気を見るに、もう私が介入する必要もあまり感じられませんがね。」
「彼は手強い男です。」
「それでは、また時機が来たら……焦るべからず。」
「わかりました。ありがとうございます。……もうお仕事は終わりですか?」
「ええ。」
「残業させていたのなら、すみません。」
「私の会社で、私の仕事ですからね。苦ではありません。」
「あなたが熱心な方で助かっています。……それじゃあ、また……。」
切ろうとした直前に、「待った。」と止められた。
「どうされました。」
「率直にお聞きしたいことがある。」
「何です?」
「あなたが私に仕事を依頼した理由は?」
「それははじめにお話して、今まさにして頂いてるとおりのことです。」
「囚人の深層を読む?」
「ええ。」
ローレンスの目つきが少し険しくなるのが、電話越しでも伝わってきた
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