1 春

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「安心しいや。その子には俺がうまいこと言うといたるから」  杏夜さんの言葉にほっと胸を撫で下ろし、マグカップをテーブルに置く。隣に視線を向けると、朱鳥さんは俺の肩を自分のもとに抱き寄せ、優しく笑いかけた。俺の不安も杏夜さんが出す答えも、すべて知っているかのような笑顔だった。 「ほな、朱鳥の幸せそーな顔も見れたことやし、帰るわ」 「下まで送るよ」  杏夜さんが立ち上がると同時に朱鳥さんがそう言ったので、俺も慌てて立ち上がった。 「あ、せや。理人くん」 「はい」 「せっかくやし、連絡先教えてや」 「わかりました。チャットでいいですか?」  ポケットに入れていたスマホを取り出して、チャットのアカウントを教える。新しい友達の欄に向坂杏夜という名前が追加された。 「もし朱鳥と喧嘩したら、俺が面倒見たるわ。いつでも連絡してきいや」 「え……」  杏夜さんがスマホから視線を上げ、悪巧みを思いついた子供みたいな笑みを浮かべる。 「杏夜くん、理人くんに変なこと言わないでくれる?」 「……冗談や。そない怖い顔すんなって」  怖い顔と聞いて、ちらっと視線を上げて朱鳥さんを見るが、いつものように人のいい笑みを浮かべているだけだった。 「ほな、邪魔したな」  杏夜さんのあとに続いて、俺と朱鳥さんも部屋を出る。エレベーターに乗って駐車場に行くまでは、大人二人が今回の杏夜さんの出張についてぽつぽつと話していて、俺にはよくわからなかった。  駐車場の来客用スペースに停めてあったシルバーの車は、杏夜さんの車だった。助手席にはビジネスバッグが置いてあり、ルームミラーには手足の生えたたこ焼きのキーホルダーが吊るしてある。 「ま、気が向いたらまた来るわ」 「そのときは連絡してね」  杏夜さんが運転席に乗り込む。シートベルトをつけたあと、俺を見て小さく手招きをした。車体に触れないように一歩前に踏み出すと、杏夜さんが少しだけ窓に身を乗り出して、周りに聞こえないように自分の口元に手を当てた。 「心配せんでも、朱鳥のことはだーれも取らへんから。二人で仲ようやっとき」  一瞬で顔に熱が集中する。リビングで見せたあの笑顔、そして今の発言からして、やはり俺が勘違いしていることに気付いていたのだろう。何か言うべきだとは思ったが、恥ずかしすぎて黙って頷くことしかできなかった。  杏夜さんは車のエンジンをかけると、結構なスピードで駐車場から出て行った。  車が駐車場から見えなくなったところで、朱鳥さんの部屋に戻る。とつてもない疲労感に襲われ、倒れるようにソファに座りこんだ。 「今日はごめんね。バイト終わりで疲れてるのに」  朱鳥さんが俺の膝にブランケットをかける。 「大丈夫です。それより……」  このまま杏夜さんの話をすると、勘違いしていたことが朱鳥さんにバレるかもしれないと、話を逸らそうとした。 「それより、さっき杏夜くんに何て言われたの?」    普段より低い声にドキっとする。射抜くような視線に目が離せない。  まさかいとこを元カレと勘違いして嫉妬してしました、なんて言えるはずがない。というか、言いたくない。でもここで嘘をつくのはよくないだろう。 「あ……それはその……」 「俺に言えない話?」  朱鳥さんがソファに手をついて、顔を近づけてくる。思わずソファの端に逃げ、膝を曲げてブランケットで顔を隠す。 「理人くん?」  ブランケットを軽く引っ張られる。朱鳥さんと目が合わないように、膝に顔を埋める。 「……本当は、もうちょっと早く帰ってたんです」 「ん?」 「えっと、カルラを退勤したのは……本当はもうちょっと早くて……でも、マンションに入ろうとしたら、朱鳥さんが……知らない男の人といるのが見えて……」 「見えて?」 「ちょっとだけ……嫌だなって……」  朱鳥さんからブランケットをひったくろうとして、目が合ってしまった。こちらを見る朱鳥さんは、俺の言葉の意味がわからないというように、きょとんとしていた。
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