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「安心しいや。その子には俺がうまいこと言うといたるから」
杏夜さんの言葉にほっと胸を撫で下ろし、マグカップをテーブルに置く。隣に視線を向けると、朱鳥さんは俺の肩を自分のもとに抱き寄せ、優しく笑いかけた。俺の不安も杏夜さんが出す答えも、すべて知っているかのような笑顔だった。
「ほな、朱鳥の幸せそーな顔も見れたことやし、帰るわ」
「下まで送るよ」
杏夜さんが立ち上がると同時に朱鳥さんがそう言ったので、俺も慌てて立ち上がった。
「あ、せや。理人くん」
「はい」
「せっかくやし、連絡先教えてや」
「わかりました。チャットでいいですか?」
ポケットに入れていたスマホを取り出して、チャットのアカウントを教える。新しい友達の欄に向坂杏夜という名前が追加された。
「もし朱鳥と喧嘩したら、俺が面倒見たるわ。いつでも連絡してきいや」
「え……」
杏夜さんがスマホから視線を上げ、悪巧みを思いついた子供みたいな笑みを浮かべる。
「杏夜くん、理人くんに変なこと言わないでくれる?」
「……冗談や。そない怖い顔すんなって」
怖い顔と聞いて、ちらっと視線を上げて朱鳥さんを見るが、いつものように人のいい笑みを浮かべているだけだった。
「ほな、邪魔したな」
杏夜さんのあとに続いて、俺と朱鳥さんも部屋を出る。エレベーターに乗って駐車場に行くまでは、大人二人が今回の杏夜さんの出張についてぽつぽつと話していて、俺にはよくわからなかった。
駐車場の来客用スペースに停めてあったシルバーの車は、杏夜さんの車だった。助手席にはビジネスバッグが置いてあり、ルームミラーには手足の生えたたこ焼きのキーホルダーが吊るしてある。
「ま、気が向いたらまた来るわ」
「そのときは連絡してね」
杏夜さんが運転席に乗り込む。シートベルトをつけたあと、俺を見て小さく手招きをした。車体に触れないように一歩前に踏み出すと、杏夜さんが少しだけ窓に身を乗り出して、周りに聞こえないように自分の口元に手を当てた。
「心配せんでも、朱鳥のことはだーれも取らへんから。二人で仲ようやっとき」
一瞬で顔に熱が集中する。リビングで見せたあの笑顔、そして今の発言からして、やはり俺が勘違いしていることに気付いていたのだろう。何か言うべきだとは思ったが、恥ずかしすぎて黙って頷くことしかできなかった。
杏夜さんは車のエンジンをかけると、結構なスピードで駐車場から出て行った。
車が駐車場から見えなくなったところで、朱鳥さんの部屋に戻る。とつてもない疲労感に襲われ、倒れるようにソファに座りこんだ。
「今日はごめんね。バイト終わりで疲れてるのに」
朱鳥さんが俺の膝にブランケットをかける。
「大丈夫です。それより……」
このまま杏夜さんの話をすると、勘違いしていたことが朱鳥さんにバレるかもしれないと、話を逸らそうとした。
「それより、さっき杏夜くんに何て言われたの?」
普段より低い声にドキっとする。射抜くような視線に目が離せない。
まさかいとこを元カレと勘違いして嫉妬してしました、なんて言えるはずがない。というか、言いたくない。でもここで嘘をつくのはよくないだろう。
「あ……それはその……」
「俺に言えない話?」
朱鳥さんがソファに手をついて、顔を近づけてくる。思わずソファの端に逃げ、膝を曲げてブランケットで顔を隠す。
「理人くん?」
ブランケットを軽く引っ張られる。朱鳥さんと目が合わないように、膝に顔を埋める。
「……本当は、もうちょっと早く帰ってたんです」
「ん?」
「えっと、カルラを退勤したのは……本当はもうちょっと早くて……でも、マンションに入ろうとしたら、朱鳥さんが……知らない男の人といるのが見えて……」
「見えて?」
「ちょっとだけ……嫌だなって……」
朱鳥さんからブランケットをひったくろうとして、目が合ってしまった。こちらを見る朱鳥さんは、俺の言葉の意味がわからないというように、きょとんとしていた。
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