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「……」
瞬間、時が止まった。
「……は?」
否、俺の思考が停止しただけであった。
「えー、生徒さんの住所はこちらの書類にかいてある通りです。志望校とか性格も書いてあるので、目を通しておいてください」
いやいやいや、待て待て待て。
「家庭教師開始まで一ヶ月あるんで、指導のシミュレーションとかしっかりやっておいてくださいね。あと、定期的に報告書を私に送るようにしてください」
ちょ、待てよ。
「じゃ、そういうことで。よろしく頼みますね」
じゃ、じゃねぇよ。
「すみません、全然話が入ってこないんですが? 一体全体、なんで塾講師の俺が急に家庭教師やることになってるんです?」
「いや、だから言ったじゃないですか。異例中の異例だって」
「いやいや、俺の意思は尊重されないんですかね? 俺、家庭教師やるのが嫌だから塾講師になったんですが?」
俺は他人と必要以上に繋がるのが苦手なのだ。会えば話す程度の同僚がいて、授業になれば共に勉学に励む生徒がいるという、このほどよい距離感のある関係が好きなのだ。仕事とプライベートで、ある程度の線引きがされているのが心地よいのだ。家庭教師なんてありえない。生徒のプライベートな空間で授業なんて、アウト・オブ・論、だ。
「大体、なんでよりにもよって俺なんですか。この校舎には俺以外にもたくさん講師が居るはずですよね?」
西九大から徒歩五分で来られるのだから、必然、ここには俺以外にも優秀な大学生講師が所属している。なぜピンポイントで俺に白羽の矢が立つのだろうか。まるで理解できない。
「いやー、それが櫻田先生じゃないとダメなんですよ。私の知り合、ゲフンゲフン、今回の契約先の要求は『櫻田優作を家庭教師として派遣すること』なので」
「いま知り合いって言いかけませんでした?」
「いやー、櫻田先生はすごいですね! ひねくれている性格が玉にキズですが、外部にまで名が知れている優秀講師だ! 性格はアレですが!」
「え? 喧嘩売ってるんすか?」
なぜ性格非難されにゃならんのだ。
「と、とにかく! 今回の契約は絶対なのです。具体的に言うと、もし生徒さんが不合格になるようなことがあれば、私の命が危険に晒されるのです」
もしやこのヒゲ、極道と契約を結んだわけではなかろうな。
「つーか、いきなりそんなこと言われて俺が了承するとでも思いましたか? 認識が甘いんですよ。報連相しっかりやってください。さすがに家庭教師は無理です」
今思えば、このヒゲは合格ボーダーラインギリギリの生徒を突然俺に受け持たせることが多々あった。これまでは特に支障がなかったため気にしていなかったが、どうもこのオッサンは非常時に俺をコキ使うきらいがあるらしい。
ちょうどいい。この機会に文句の一つでも言って──
「この案件、お給料は普段の二倍となっております」
「……今、なんと」
「こちらの案件、時給三千円となっております」
「…………あの、金で人を動かそうとするの、ホント良くないと思いますよ」
まったく。何がヒゲジャスティスだ。これじゃあ正義の欠片も無い悪代官そのものじゃないか。
◆
「────よし、到着っと」
一ヶ月後。家庭教師・櫻田優作は初回授業を行うべく、とある一軒家を訪れていた。
掌返し? 金の亡者? 否、否である。人間とは往々にして長いものには巻かれるものなのだ。俺は悪代官の命で家庭教師になっただけで、決して邪な気持ちからこの案件を引き受けたわけではない。
まあ、ンなもんは建前で、給料と業務環境を天秤にかけた結果、僅差で天秤が給料の方に傾いただけなのだが。冷静に考えて給与二倍とか断る道理がなかろう。
ただし、あくまでコレは仕事だ。もちろん全力で指導に挑む所存である。塾長を交えて親御さんとは事前に面談を重ねたし、準備は入念に行った。懸念点があるとするなら、なぜか生徒を交えた面談が一度もなく、『これまで塾を転々としてきた』という情報を得たことであるが、まあ些末な問題だろう。とにもかくにも、まずはインターホンを鳴らさないと何も始まらない。
「スゥー……ハァー……」
一旦深呼吸。
「……よし」
のちに、気合を入れ直した俺は、インターホンを押した。
『はーい! ちょっと待ってくださいねー!』
インターホン越しに聞こえてきたのは、明朗快活な少女の声。事前情報によると、この時間は親御さんが仕事に出ているとのことなので、十中八九、この声の主が俺の担当生徒なのだろう。
透き通った声と共に扉が開く。
「え、えっと、その……こんにちは!」
玄関からピョコリと顔を覗かせたのは、想像していたよりも五割増しくらい美系な制服少女だった。
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