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「ふむふむ、なるほど。生徒ちゃんと冷戦状態なんだけども、解決策が分からないと。そんで、生徒ちゃんも優も間違えたことはやってないから、結局点数が伸びないのは力不足な優のせいなんじゃないか、と。だから、どうしようもなくて途方に暮れてる、と……大体そんな感じで良いかな?」
かくかくしかじか。行き詰まった現状の詳細を話すと、意外にも楓は、状況を正確に理解してくれた。ほろ酔いの割に、頭はしっかり働いているようである。
「うーん……なんていうかなぁ。別に優が力不足ってわけでも無いと思うよ?」
「そう、なんだろうか」
「うん。だって優は勉強教えるの上手だもん。実際、塾でも評判は良かったわけでしょ? むしろ優は実力がある方だよ。だから、多分問題の根っこはそこじゃない。もっと簡単で、単純なことなんだと思うなぁ」
「? 単純なこと?」
「うん。とっても簡単なこと」
言うと、楓はビールを一口喉に流し込み、
「スレ違い。優たちは多分、間違ってるんじゃなくて、スレ違ってるんだよ。誰かと生きてれば、よくあることじゃん?」
缶を柵の上に置いて、ゆっくりと語り始めた。
「優の指導法は正しい。生徒ちゃんの不安や憤りも、これまた正しい。間違いなんて、何も無い。でも、今はその正しさがぶつかりあってるんだよ。だから、噛み合ってた歯車がズレて、スレ違っちゃってる。要するにただの喧嘩さ」
普段とは違う、どこか落ち着いた表情で。楓は笑う。
「しょうがない。それは、しょうがないんだよ。誰も悪くない。人の想いは、交換し合うものだからさ。その過程で齟齬が起きて、一方通行になったりすれば、行き違いやスレ違いが起きちゃうのはしょうがないんだよ。ほら、ネットだって一気にバババっと情報を送ったら回線が重くなっちゃうでしょ? 多分そんな感じ」
「まあ……そうだな」
「だから、なんていうか。人間も似たようなもんでさ。一気に感情を伝えすぎちゃうと、相手側の処理が追いつかなくなるんじゃないかな。伝える想いがあまりに重いと、二人を繋ぐ感情のネットワークが重くなっちゃうわけさ」
自らの人差し指同士を突き合わせて、楓が柔和に微笑む。
「そうなってしまえばコンピューターみたいに、人の心の中でもバグが起きるんだよ。混乱して、ワケが分からなくなって……それで時折私たちは、言っちゃダメだと分かっていても、そういう言葉を相手に浴びせてしまう。それって、たとえ信頼し合う関係でも起こりうることでさ。ふふ、だから人間って難しいんだよねぇ」
「はは、違いないな。勉強なんかより、よっぽど難しい」
言ってはならない。それでも、言ってしまう。
【家庭教師ができるのは、あくまでサポートだけだ。生徒に手を差し伸べることはできるが、その手を掴んでもらえないのなら仕方がない。とりあえず今日のところは帰らせてもらうよ】
俺も。
【ただ、アタシが悪いだけなんだよね。頑張ってもダメなアタシが悪くて。才能が無いアタシが、悪いだけ】
彼女も。
思えば、言わなくてもいいことを言い合って、ぶつかり合ってきたのかもしれない。
「でもさ? 人がAIと違うのは、多分そういう行き違いが起きた時に、言葉で問題を解決できるとこなんだよ。スレ違って喧嘩になった時でも、後で『ごめんなさい』って言って仲直りができる。ある程度、やり直しが効く。だって、ほら。昔から私と優も、そうして何回も『ごめん』って謝りあってきたでしょ?」
「……はは、そういやそうだったか?」
不意にノスタルジックになって、苦手な苦味を一気に流し込んだ。
強炭酸が喉の奥で弾ける。ずっと飲まず嫌いしていたが、案外悪くない感覚だ。
苦手だったものでも、触れてみれば慣れることはある。まるで人間関係みたいだな。
なんて、くだらない物思いを一つ。いよいよ俺にも酔いが回ってきたか?
「しっかし、随分と壮大な話になったな。心から謝れるのがAIと人間の違い。感情を扱う俺たちと、データを扱う機械との違い、か」
「あ、ごめん。なんか、そういうのを授業で習ったばっかだから、話がそっちに寄っちゃったかも。話題それちゃったかな?」
なんて、口では謝りつつも、特に悪びれる様子もなく缶ビールに口をつける楓。
「だから、話を戻すと、えーっと……多分、優が生徒ちゃんに言ったことは正しいんだと思う。でも、優は正しすぎたんだよ」
「? 正しすぎた?」
「うん、昔から優はずっと正しいのよ。勤勉実直で、品行方正で、清廉潔白で。優は一度決めたことを絶対曲げない。自分が進んでる道が間違いじゃないって信じて、頑張って努力して。まっすぐ歩くことができるんだよ。後ろは振り返らずに、ただひたすらに、まっすぐに。足を止めずに、ずっと前だけ向いて歩いてる。だから──優は強い。強すぎるくらいに、心が強いのよ」
まるで何かを懐かしむように、楓が目を細める。
「でもさ、みんながみんな優みたいに強いわけじゃないんだよ? 時には後ろを振り返りたくなるし、足を止めたくなることだってある。悩んで、迷って。自分が進んでる道が本当に正しいのか分かんなくなって、不安になっちゃうの」
「それが、今の神楽坂だって言いたいのか?」
「あくまで勘、だけどね。優と生徒ちゃんのスレ違いは多分その辺。生徒ちゃんは『今までやってきたことが本当に正しかったのかな?』って不安になって後ろを見てるんだけど、優は合格までの道筋しか見てない。前しか向いてないんだよ。二人の向いてる方向性が違うの。だから優の正しい言葉が、正しい形で伝わらなくなっちゃってる気がする」
「方向性の違いか。はは、バンドの解散理由みたいだな」
過去を振り返りたい生徒と、未来しか見ていない教師、か。
なるほど。どうりで噛み合わないはずだ。
「だから、さ。きっと優が今やらなきゃいけないのは、生徒ちゃんの手を引っ張って前に進むことじゃなくて、隣で一緒に、少しだけ立ち止まってあげることなんだよ。生徒ちゃんと一緒に、今まで進んできた道を振り返ってあげることなんだよ。『これまでやってきたことは間違いじゃなかったんだ』って、生徒ちゃんに言い聞かせてあげることなんだよ」
「ハッ、まるで今までの俺と神楽坂を見てきたような言い分だな?」
「ふっふっふ。見たわけじゃないけど、二人の話は色々聞いたからねっ」
パチリとウィンクを決めつつ、楓がこちらを見やる。
「話を聞いた? 誰から? ……ああ、いや。やっぱいい。大体察した」
「おぉ、さすがは優。理解が音速」
「うるせぇな。くそ、余計なことしやがって」
なに、考えてみれば簡単な話だ。
楓に俺らの内情を話したのは、神楽坂本人。話したのはおそらく、オープンキャンパスの時だろう。楓と食堂で出くわした時、少しの間だが俺はその場を離れることがあった。
おそらく俺が目の届かぬうちに、コイツは神楽坂から根掘り葉掘り、家庭教師としての俺のことを聞いていたのだ。
「いやー、生徒ちゃんって意外とチョロいんだね。『ちっちゃい時の優のこと教えてあげる』って言ったら、授業中のこといっぱい教えてくれたよ? 可愛かったなぁ。『センセーがセンセーが』って、それはもう楽しそうに喋ってくれたもん」
「お前ホント余計なことしてくれたな」
羞恥やら怒りやら酒気やらで顔が火照る。まさか、情報が全て筒抜けになっていたとは。プライバシーもへったくれもない。
「んで、どう、優? 解決の糸口は掴めそう?」
「ん? ああ。上手くいく自信はないが、やるべきことは大体分かった」
「うむ、それなら良き! じゃ、私と優の初めての飲み会は、この辺でお開きだねー」
どこからか持ってきていたビニール袋に空き缶を放り込み、帰り支度を始める楓。
「いんや。まだお開きには、ちと早い。そら、受け取れ!」
だが俺は彼女を呼び止めて、飲みかけの缶ビールを投げ渡した。
「うわっ、ととと! ちょっと! 優ったら、急に何すんの! 中身こぼれちゃうじゃん!」
「ナイスキャーッチ。……ってのは、まあ冗談で。すまん。まだビールは慣れてなくて、とても飲み干せる気がしなくてな。半分くらい余ってるから、飲んでくれないか?」
「えぇー、関節キスになるじゃん」
「人のパスタ食っといて、よく言えるな。ンなこと今更気にする関係じゃないだろ」
「ま、別にいいけどさぁー」
不満げに口を尖らせつつも、楓は一気にビールを飲み干していく。
「ぷはー。飲んだ飲んだ。ごちそうさま。空き缶は私が持って帰っとくから。そんじゃ、またねー」
「いや、待て。まだ帰るのは早い」
「あーん、もうっ! 今度は何──」
「お前もなんか悩んでんだろ」
「……え?」
鳩が豆鉄砲を喰らったかのように、楓がこちらを見つめ返す。
「だから。お前もなんか抱え込んでるんじゃねぇか、っつってんだよ」
「べ、べべべ別に? そ、そんなこと無いけど?」
「露骨に動揺してんじゃねえか。汗拭けよ」
「うぐぅ……」
先ほどの饒舌さはどこへやら。借りてきた猫のように、楓が押し黙る。
「お前が普段使う言葉を、そのまま返してやる。何年の付き合いだと思ってんだ。昔からお前は悩んでる時ほど、よく口が回るんだよ。相談に乗ってくれたのは感謝するが、今日のお前は明らかに口数が多かったからな。飲むペースがやたらと早かったのは大方、悩んでる自分を誤魔化すため、ってところだろう。違うか?」
「……はぁ。付き合いが長いと、ロクに隠し事もできないねぇ。あー、ヤダヤダ」
柵にダラリと寄りかかり、ムスリと頬を膨らませる楓。不満げながらも俺の言葉に否定を示さないその態度は、コイツなりの降伏宣言だろうか。
労働の光を灯す夜の街並みを眺めつつ、楓は溜息混じりに口を開いた。
「はぁ。なんというか、そんなに大したことじゃないんだよ? なんか最近、優が私を置いて、どんどん大人になっていくような気がして。それがちょっぴり、寂しいなぁって……ホントに、ただそれだけだよ?」
それは意外なほどに単純で、根源的な。人間としてごく当たり前の悩み。
しかし、沈痛な楓の表情と、鈴虫の儚げな音色が嫌なくらいにマッチしていて。その珍しくも無い悩みのタネは、既に発芽を終えて、楓の心に深く根を張っているような気がした。
「別に、そうでもないだろ。俺もお前も二十一だ。こうして酒を酌み交わしてる時点で、どっちも大人だろ?」
まあ、俺は酌み交わしたと言えるほど飲んじゃいないが。
「ふふ、違うって。見た目じゃなくて、精神年齢の話だよ」
「は? 精神年齢?」
「うん。あの日──おばさんとおじさんが居なくなって、初めて優が泣いた日。あの日を境に優は大人になって、ずっと私の前を歩いてる気がするの。背中が見えなくなるほど遠いわけじゃないんだけど、どうやっても追いつけなくて。付かず離れずなんだけど、並び立てることはなかったの」
聞いて、ふと、二人で歩いた初夏の夜を思い出す。
【うーん、なんだろう。なーんか優っていっつも私のちょっと先を歩いていくんだよねー】
【いや、なんていうか私と優って、いっつも並び立ってない気がしてさ】
若干の違和感はあったものの、あの時は単に俺の歩行ペースが速いだけだと思っていた。
しかし今思えば、あの言葉は楓の内側から漏れ出た、葛藤の一端だったのかもしれない。
「最初はね? 涙も流せずに衰弱していく優が心配で、隣に居ただけだった。心配で、心配で、このまま優も死んじゃうんじゃないかなって思っちゃうくらい、本当に心配で。でも……なんて声を掛ければいいのかも、ぜんぜん分からなくってさ。だから、隣で待つことしかできなかったの」
悩んでいる時に饒舌になるという経験則は、やはり的を射ていたらしい。言葉に宿す感情を強めつつ、楓の独白は加速していく。
「優を独りにしちゃいけない、って。初めはそう思ってた。でも……優ったら、いつのまにかおばあちゃんのためにいっぱい勉強するようになるんだもん。昔から一緒に遊んでた私からすれば、そりゃあビックリしちゃうでしょ?」
そう言って、楓は柵から手を離すと、
「で、私、気づいちゃったの──ああ、私は私より先に優が大人になっていくのが、怖いだけなんだな、って」
視線を星空へ移し、自嘲混じりに笑みを浮かべていた。
「昔から家族みたいだった優が、どっかに行っちゃう気がして怖かった。だから……どうすれば私も大人になれるかなって思って、とりあえずピアス開けたり、金髪にしたり、タバコ吸ってみたり、お酒飲んでみたり、パチンコ行ったりしてみた」
「多分大人になるってそういうことじゃないと思うぞ」
「っ! わ、私もそれくらい分かってるもん! でも、少しは何かが変わるかもじゃん!?」
「まあ、確かに変わったかもしれないな。何がとは言わないが」
確かに随分と変わった。少なくとも昔は、ギャンブルで金欠になってメシをタカるようなロクデナシではなかった。
「ほら、私たちって、今三年じゃん? そろそろ就活とかも気にする頃じゃん? だから、色々考えるわけよ。身体だけ大きくなった私がこのまま社会に出て大丈夫なのかなぁとか、高校と大学は優と同じだったけど、会社も同じってわけにはいかないよなぁとか」
「そりゃあ当たり前だろ。お前は文系で、俺は理系だからな。そもそも分野が違うわけで──」
「あとは、卒業して別々の道に進んだら、今度こそ優は私の目が届かないくらい遠くまでいっちゃうのかなぁ、とか、時々考えたりしちゃう」
「……」
なるほど。ようやく話の本質が見えてきたな。
多分、楓は変わるのが怖いんだろう。
学生から社会人になるのが怖い。家族同然の俺と居られなくなるのが怖い。当たり前が当たり前でなくなるのが怖い。
──それら全てを受け入れて、大人になるのが怖い。
おそらく楓の言う『大人になる』とは、変化を受け入れることだ。
だから、『両親を失う』という大きな変化を乗り越えた俺は、楓の目から見れば随分と大人びて見えるのだろう。普段はぞんさいに扱うくせに、大層な評価をされたものだ。
でもな。
「はっ、本当にバカだよ、お前は」
変わらないものもあるってことを、お前は知るべきなんだ。
「な、なによ、いきなりバカって! 優と離れるのが寂しいって、割と普通のことだと思うんだけど!?」
「バーカ。お前、俺たちが卒業程度で離れられると思ってんのか?」
「え……?」
「まあ、そうだな。お前が言った通り、確かに俺とお前は並び立つことはなかったかもしれない。今思えば、お前はいつも俺の一歩分後ろに居た気がするよ。お前が行動するのは常に俺の後だったからな。俺がテスト勉強始めてるのを見て慌てて勉強したり、俺が受験対策してるのを見て慌てて勉強教わりに来たり」
「うっ、そ、それは……」
「でもさ。お前はそれでいいんじゃないか?」
「それで、いい……?」
「ああ、そうだとも」
無理に変わろうとしなくていい。たとえ卒業して環境が変わろうと、楓は楓のままでいいんだ。
「離れるから寂しい? 笑わせんじゃねぇよ。距離が遠くなった程度で、俺がお前を放っておくとでも思ったか? こっちは散々食い尽くされた飯の代金、払ってもらう必要があるんだよ。お前が社会人になっても請求し続けるからな」
「えぇ、櫻田金融こっわ……」
「フン。だから、どうせ離れても変わらないのさ。もしお前が怠けてたら、そん時は俺がケツを叩いてやる。お前が逃げても、首根っこ引っ張って離さないからな」
「ねぇ優、なんかさっきから怖くない? ヤクザなの? 櫻田組なの?」
「どっちかっつーと、見た目はお前の方がヤクザだけどな」
「あ、どうでもいいけど、極道の妻って美人なイメージあるよね。いぇーい、私ってびじーん」
「本当にどうでもいいな」
しかし、なるほど。つまらない冗談を吐ける程度には悩みが解消されたらしい。
「まあ、なんだ。色々手厳しいことは言ったが……俺が泣いてる時、黙って側に居てくれたのはお前だ。何を言うでもなく、黙って一緒に居てくれた。それだけで、俺は救われたんだ。だから何があろうとも、お前は大事な家族みたいなものなんだよ。切ろうと思って切れる縁でも無いっつーの」
後田楓。昔からズボラで、何かと迷惑をかけてくる、家族のような幼馴染。
しかし、その迷惑を許せるくらい、俺は楓に感謝している。些細な行為でも人は救われうると教えてくれた、俺の数少ない恩人の一人なのだ。
──だから。
「たとえ卒業して距離が離れちまっても、俺がどこかに消えるなんてのはありえないんだよ」
たとえ何年、何十年経とうとも。俺たちの信頼は揺るがない。
「……ふふ、そっか。全部変わるわけじゃないのか」
「ああ、そうだ。まあ、その髪の色は変えた方が良いと思うが」
「え、なんで?」
「いや、なんでって言われてもな。お前、金髪のままリクルートスーツ着るつもりか?」
「……じ、自由な社風のとこならワンチャン」
「ねぇよバ楓」
「誰がバ楓だ!?」
髪色以前に、まずはこの幸せな脳味噌から変えた方が良いのかもしれない。
「ていうか優、生徒ちゃんとの件は本当に大丈夫なの?」
「さあ、どうだろうな。やってみないとどうにも分からん」
やることは決まったが、まずは神楽坂が俺の話を聞いてくれないと何も始まらないからな。正直、祈るしかない部分はある。
「無理、とは言わないんだね。うん、だったらきっと大丈夫だ! 楓さんが保証する!」
「えらく信用されたもんだな。何か根拠でもあるのか?」
「ふっふっふ、聞いて驚きなさい」
そう言って悪戯に微笑むと、楓はパチリと指を鳴らし、
「根拠は、私からyouへの信頼のみさっ!」
人差し指をビシッとこちらに向けて、なんとも非論理的な主観をぶつけてきた。
「はは! 聞いて驚いたな。こりゃ期待に応えるしかない」
冗談めかして、笑い返す。あまりに単純で根拠と呼べるようなものでもなかったので、思わず吹き出してしまった。
「ふっふん! そうだろうそうだろう!」
そんな俺をよそに、幼馴染は満足げに胸を張る。ただ俺に信頼を向けているというだけの話なのに、一体何がそこまで誇らしいのだろうか。何年も一緒に居るはずなのだが、やはり俺は時々楓が分からなくなる。
ああ、だけど。
【僕は不確実だからこそ、人生は面白いと思うんだよ】
それは多分、分からないままでもいいんだろう。
不可解な言動をするからこそ、後田楓という人間は面白い。
そんな彼女の不確実な言葉を貰っただけで、不思議と力が湧いてくるような気がする。
やはり榊原教授の言う通り、人生は理屈だけでは語れないらしい。
「街の明かり、消えねぇな」
「そだねぇ。夜遅くまでお勤めご苦労って感じ」
深夜の長崎は、未だ光り輝いている。坂が多い街だというが、電灯の数もきっと負けてはいないだろう。
「ねぇ。いつか私たちも、あの光の一部になっちゃうのかな?」
嫌なことを問いかけるものだ。
「さあな。ま、嫌なら定時退社できる会社に行くっきゃない」
「はぁ。こりゃ本格的に金髪卒業かなぁ」
取るに足りない会話を交わしつつ、人工の光を見やる。しかし胸に抱いた感情は、ウミホタルの光を見た時と、さほど変わらなかった。
人々を照らす電灯も、ウミホタルの発光も。結局はどちらも、生命の営みで。ならば、どちらも平等に尊い光なんじゃないか、と。
そう、思えたのだ。
「うわ、やっべ。今一瞬、残業を尊いと思っちまったわ。ダメだ、完全に疲れてる。そろそろ寝るわ」
「ま、そろそろ良い時間だしねー。私も部屋戻ろっと」
何の予兆もなく、別れの時間は訪れた。踵を返し、特に名残惜しさを感じることもなく、俺たちは互いに背を向ける。
「あ、すまん。最後に一つ、いいか?」
けれど、今日だけは言っておくべきことがある気がして。最後の最後、俺は振り返らずに楓を呼び止めた。
「ん、何?」
それは、常日頃伝えるべき言葉で。
けれど恥ずかしくて、最近はご無沙汰になってしまっていた言葉。
「ありがとな、楓」
ああ、やはり。感謝というものは、口にするとやけに照れくさかった。
「ふふ、優も少しはレディに優しくなったね? こっちこそ、いつもありがとっ」
そんな、むず痒くなるようなキャッチボールを終えて。見慣れた部屋に足を踏み入れた瞬間、俺は突如として、自分の視界が悪くなっていくのを感じた。
「……悪酔い、しちまったかな」
ああ、そうだ。きっと、そうに違いない。変に感情が込み上げてくるのも、急に眼の前がボヤけたのも……何もかも全部、慣れない酒のせいなんだ。
そういうことに、しておこう。
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