第四章「I show 相性」

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 教授との邂逅やら幼馴染とのベランダ飲み会やらを経て、時は十月中旬。若干の肌寒さを感じる秋の曇り空の下、俺は神楽坂邸を訪れていた。 「スゥー……ハァー……」  深呼吸しつつ、インターホンとにらめっこ。何度も入ったはずの一軒家が、今日だけはラストダンジョンのように見える。まあ残念ながら、俺は剣を振るう勇者ではなく、ペンを走らせるだけの教師なわけだが。  今回の目的は、至って単純。教え子とのスレ違いを解消し、受験戦争を再開することだ。ラスボスに囚われた姫を救うことに比べれば、さほど難しくはない。  結果が出ない。ゆえに、今までやってきたことを信じられなくなっている。文字通り、自信を失くしているのが今の神楽坂の状態だ。  だから今日は、共に歩んできた道のりが正しかったと証明する必要がある。これまでの努力に間違いは無かった、と。そして諦めなければ、報われる未来も見えてくる、と。俺は証明しなければならない。  状況分析は済んだ。説得材料として、二日間寝ずに資料を作った。 「だったら、後は覚悟を決めるだけだ」  高まる緊張の中、俺はインターホンに指をかけた。 『……センセー、また来たんだ』  応答あり。第一関門は突破だ。 「ああ、懲りずにまた来たよ。どうだ、中に入れてくれないか?」 『……嫌』 「はは、随分冷たいな」  想定内の反応。問題はここからだ。 「もう、勉強が嫌になっちまったか?」 『いや、別に。勉強は、元からそんなに好きじゃないよ。嫌になったのは……何もできない、アタシ自身』  想像より、返答はしっかりしている。しばらく家を訪ねていなかったのが、功を奏したか。 「はは、何もできないなんてことは無いだろ。俺に女心を教えてくれたじゃないか」 『気休めはやめてよ。センセーだって、本当は恋愛教師なんてバカバカしいって思ってるんでしょ?』 「はは、否定はできないな」  この期に及んで耳障りの良い嘘をついても意味は無い。率直な気持ちを告げる。 『ほら、やっぱり。恋愛教師なんて、意味無いんだよ』 「いや、案外そうでもないぞ? どうやら友人曰く、俺はレディに優しくなったらしくてな。多分、それはお前の『授業』のおかげだ」  確かに、バカバカしいとは思う。だがそれは、決して無意味なんかじゃなかった。 【あのね、女心は数学とは違うの。だから、女の子を褒めるのに確実な最適解なんて無いわけ。そこまで深く考える必要も無いんだよ?】  楓に『ありがとう』を言えたのは。余計なことを考えず、素直な気持ちを伝えられたのは。  きっと、恋愛教師の助言があったおかげなのだから。 「こんな俺でも、お前が居たから少しは変わることができた。無意味に思えたことにも、意味はあったんだよ。お前が教えてくれたことは、今でも俺の中に残っている」  それに気づいたのは。皮肉にも、共に過ごす時間を失ってからだった。 【ざーんねん。優作くんの占い結果は『教え子に弱みを握られて、明日から絶対服従になっちゃう』でした】  最悪な形で出会った。 【アンタに言われなくたって、自分でもわかってるのよ! このままじゃいけないことらい、嫌になるくらい自分でわかってる!!】  本気でぶつかりあった。 【センセーが家庭教師なら、さしずめアタシは恋愛教師ってところだね】  変わったヤツだと思った。 【えへへ。アタシが良いっていうまで、離しちゃダメだよ?】  柄にもなく、その小さな手を握った。 【お願いだから、今日はもう、一人にしてよ……!】  そして、今。俺たちは、もう一度ぶつかりあっている。  そんな、慌ただしい毎日。変わりたくない俺の平穏を乱した、世にも奇妙な教師生活。  忙しない。大変だ。疲れて疲れて仕方が無い。  約半年間。俺はずっとそう思いながら、彼女との非日常を過ごしてきた。  ──だが、その日々を無意味だと思ったことは、一度も無かった。 「確かに、お前と過ごす日々は大変だった。俺の平穏な日常は完全に崩れ去ったさ。でも……慣れてみれば、それも悪くなかった」  だから、俺は彼女に告げる。 「刺激的な毎日も楽しい。それを俺に教えてくれたのは、他の誰でもないお前なんだよ。だから……意味が無いなんて、言わないでくれよ。悲しいじゃないか」  きっと、それは無意識に漏れ出た、心からの声だった。 『……』 「……」  インターホンからの反応は無し。突如として、静寂が訪れる。  矢継ぎ早に言葉を紡いだことを、少しだけ後悔した。 「だから……頼む、神楽坂。お前が間違っていなかったことを、全てに意味があったことを、俺に証明させてくれないか。そのために、俺は今日ここまで来たんだ」  直接顔を合わせているわけではない。彼女がカメラ越しで俺を見ている保証も無い。  それでも、せめて言葉だけは届いてくれ、と。半ば祈るように、俺は頭を下げた。 『……て……よ……』  ──しかし。 『もうやめてよ! これ以上、アタシに優しくしないでよ……!』  届けた想いのアンサーは、明確な拒絶の意志だった。 『もうイヤなの! 全部イヤなのよ!! ほっといてよ!! センセーからそんなこと言ってもらえる資格なんて……今のアタシに無いんだよ!!』  全てを否定するように、少女は嘆き続ける。 『報われない現実がイヤなの! 才能が無い自分がイヤなの! ちょっとつまづいただけで心が折れちゃう弱い自分がイヤなの! もう一回頑張るのは怖くてイヤなの! センセーの期待に応えられないのがイヤなの!!』  そうして、ひとしきり叫び続けた彼女は。 『イヤ! イヤ! イヤ! もう何もかもが、イヤなのよ……!!』  ゼーゼーと息切れを起こしながら、一貫して己を否定し続けた。 『……ね? センセーも、こんな生徒ウンザリでしょ? アタシってセンセーが思ってるよりずっと陰気で、弱くて、ダメダメなんだよ?』  全てを諦めたように、少女が自嘲する。 『多分、恋愛教師も要らなかったよね。センセーは元々女の子に優しいから、アタシがとやかく言う必要なんて無いし。そもそも、アタシが恋愛を教えるっていうのが、無駄だったのかもね』  すると一瞬。インターホンから音声が途切れ── 「だって、アタシも恋なんてしたことないんだもん」  ──玄関の戸が開き、眼前に教え子が現れた。 「ね? だから、全部無駄だったんだよ。生徒としては問題児。恋愛教師のくせに、自分が恋を知らない。ほら、救いようがないでしょ? だから……ね?」  そう言って首を傾げると、 「アタシなんかほっといて、早く帰った方が良いよ?」  どこか懐かしさを感じる冷めた笑みで、俺を見つめていた。 「……そうか、神楽坂。それが、お前の答えか」 「うん。だから、センセーも早く諦めて──」 「だが断る」 「っ!?」  たまらず彼女の言葉を遮る。この櫻田優作が最も好きな事のひとつは、勝手に諦めている教え子に『NO』と断ってやる事だ。 「な、なに言ってんの!? アタシ、もう完全にやる気無くしてんだよ!? 分からないの!?」 「うるせぇな。ンなこと知るか。下手に出てれば、好き放題ペラペラ喋りやがって。こんな高時給のバイト他にねぇんだよ。帰れって言われても帰るわけねーだろバーカ」 「なっ! お、お金目当てなの!?」 「は? 何驚いてんだよ。バイトなんだから当たり前だろ。こちとら生活かかってんだ。誰が何と言おうと、死んでも家庭教師はやめねぇ」  クソ、もう知らん。逆に吹っ切れてきたな。 「いいか? よく聞け? 俺は家庭教師である以前に、一人の貧乏学生なわけ。お前の合格に手を貸すと言ったのは嘘じゃないけど、それも金のためなの。じゃなかったら、誰がお前みたいな問題児のためにここまでするかっつの」 「なっ……!」 「陰気で、弱くて、ダメダメ? ハッ、だから、どうした。そんなの、とっくに知ってんだよ。だから、そんなお前でも一からやり直せるようにと思って、わざわざ資料まで用意してここまで来たんじゃねぇか。給料のためにな」 「そ、そんな給料給料言わなくてもいいじゃん!!」 「大体なぁ。お前、本当に諦めてるなら、なんで今こうして俺と喋ってるんだ? 放っておいてほしいなら、居留守決めて俺を無視すればよかったんじゃないのか?」 「そ、それは……」 「フン、何が無意味だ。何が全部無駄だ。本当は何も諦めてないんじゃねぇのか? 本当は今も、差し伸べられた手を掴みたいんじゃねぇのか?」 「違う! アタシは──」 「違わねぇよ!!」 「……!」  ああ、まったく。ここまで自己否定されると、さすがに腹が立ってくる。 「この世に、無駄なことなんか無いんだよ。苦悩も、葛藤も、絶望も。今お前が感じている、その全てには、きっと意味がある」  生きていれば、無駄に思えることなんて山ほどある。未来なんて保証されてないし、今自分がやっていることに価値があるのか、なんて誰にも分かりやしない。  ──でも、だからこそ。 「過去に積み上げたものが無駄になるかどうか、ってのはさ。多分、これからの自分次第で決まるんだよ」  全て無駄だったと切り捨てるには、まだ早い。それを決めるのは、今じゃないんだ。 「そりゃあ、くじけそうになる気持ちも分かる。ずっと頑張るのは苦しいことだ。やめたい。逃げたい。楽になりたい。そう思うのは、決して間違いなんかじゃないさ。でも……今全てを諦めてしまえば、それこそ、お前の努力は全部無駄になっちまうかもしれないんだよ」  そうだ。最初から無駄なことなんて、何もない。  失敗してもいい。立ち止まってもいい。  大事なのは、その後なんだ。 「失敗から何かを学ぶことができれば、それもお前の財産になる。学んだことを活かして成功を収められれば、苦しんだ日々も報われる。だから、失敗したって、何度も立ち上がればいいんだ。泣いても、嘆いても。それでも明日を向いて、最後までやり遂げられれば──お前がやってきたことは、何一つだって無駄になりやしない!!」  望ましくないものを無駄だと切り捨ててしまうのは、簡単だろう。だが俺は、俺の過去を何一つとして無駄だと思っちゃいない。  両親の死も。  ロクデナシな幼馴染との出会いも。  今目の前に居る教え子との日々も。  そして、これまで俺自身がやってきたことも。  その全てが、今の俺を形作っている。  母さんと父さんが居なくなっても、二人の意志は今もなお、俺に受け継がれている。  ──二人の死を、ただの悲しい出来事なんかにはしない。  ほら、何も無駄なことなんて無いだろう?  多分、それは俺だけじゃなくて。きっと、誰もが同じで。  人ってのは、そうやって作りあげてきた歴史の系統樹を無駄にしないように、毎日を生きているんだろう。  ──だから、そうして俺は。  ──そうやって、君は。 「過去を無駄にしないために、未来を夢見て、今を頑張っていこう。立ち上がるのが怖いなら、何度だって俺がその手を取ってやるからさ」  壁にぶつかったり、つまづいたりしながら。それでも、前を向いて生きていくんだ。 「……ねぇ、センセー?」  俯き、表情を隠したまま。少女が俺に呼びかける。 「質問か。いいだろう、なんでも答えてやる」  いつものように、見栄を張って偉ぶった。  「アタシ、ほんとにもう一回頑張れるのかな?」 「心配すんな。意地でも俺が頑張らせてやる」 「受からないかもしれないよ?」 「心配すんな。受かるまで何年でも面倒見てやる」 「期待に応えられないかもしれないよ?」 「心配すんな。ハナから過度な期待はしちゃいない」 「またいっぱい、迷惑かけちゃうかもよ?」 「心配すんな。迷惑かけられるのも仕事のうちだ」 「ほんとに……ほんとに、アタシがやってきたことに意味があったって言える?」 「心配すんな。何回も言ってるだろ? それを証明するために、ここまで来たって」  そして俺は、不安げに問いかけ続ける教え子に指を差し、 「今日は特別授業だ! その不安を全部取っ払うマジックアイテムをお前に見せてやる!!」  好奇心旺盛な彼女を煽るように、『宣戦布告』を決めたのであった。
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