最終章「羽化る繭」

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最終章「羽化る繭」

 絹糸を紡ぎ上げる昆虫として知られる蚕は、蛹となる際、純白の繭で身を包む。  成虫となる直前、ほんの刹那。外界への出立を迎える前に、彼らは自らを暗闇にとじ込めるのだ。  そう。自らの手で殻を破り、彼らは旅立っていくのである。  ──ならば今の彼女は。神楽坂繭は既に、旅立つ準備を終えているのだろう。 「よし。そんじゃ、始めるか」 「うん。そう、だね」  時は移ろい、長崎は冬。凍える寒さで、身体が勝手にバイブレーションする季節。使い古した手袋を鞄に仕舞い込み、今日も今日とて授業の開始を告げる。 「ねぇセンセ、ここの解き方合ってる?」 「ん? ああ、バッチリだ。よくできてるぞ」 「えへへ、やったーっ」  クエスチョン&アンサー。一貫した授業スタイルは、今日も変わらない。  本当に。笑ってしまうくらいに、同じような指導を続けてきた毎日だった。  だが、裏を返せば。変わっていないものは、それくらいなのかもしれない。 「ふむふむ。あ、ここはこう解けばイケそう!」  まず、神楽坂本人が一番変わった。これは言うまでもないだろう。正直なところ、こうして楽しそうに筆を進める未来なんて、出会った時は想像もつかなかった。  そして何より、大きな挫折を味わった神楽坂は一回りも、二回りも成長した。  今思えば、点数が伸び悩んだ秋を乗り越えた時点で、ある意味殻を破っていたのだろう。伸び悩んだ原因を徹底的に自己分析した彼女は、見事に冬の模試でリベンジに成功。飛躍的に点数を伸ばしたのであった。  そして先月、迎えた一次試験本番。緊張から幾つかの凡ミスは見られたものの、彼女は見事に目標点数をクリア。予定通り西九州大学に出願し、現在、まさに二次試験に向けてラストスパートをかけているところである。 「あ、神楽坂。そこ、解き方は合ってるけど、漢字間違えてるぞ? 一応減点される可能性もあるから気をつけとこうな」  まあ、ラストスパート言っても、俺はこの程度の単純な指摘をしているに過ぎない。力をつけた彼女は大抵の疑問を自力で解決できるようになったため、最近はわざわざ俺が解説をする必要も無くなったのである。  仕事が減ったのは喜ばしい。でも、俺が居る意味はあるのか? と、少しセンチメンタルな悩みを持っているのは内緒の話である。 「って、おい神楽坂。だから漢字間違えてるって。無視しないで修正しろよ」 「……」  なぜか、反抗する教え子。プイッとそっぽを向き、進めていた手を止める。  ……ああ、そういうことか。 「おい、繭。さっさと修正しろ」 「うんっ! すぐ直すねっ!」  不機嫌が、満面の笑みへと早変わり。大層嬉しそうに、教え子が消しゴムを手に取る。 「ホントめんどくさいな、お前……」  大したことではないが、まあ、これも変わったことの一つではある。面倒なことに、この教え子はファーストネームで呼ばないと無視を決め込むようになったのだ。  『特別感を出せ』と言われて一度下の名前で呼んだのが、どうも失敗だったらしい。あの日を最後に恋愛教師を名乗るのはやめたようだが、今度は呼び方を限定してくるようになった。  やれやれ、まったく。最後の最後まで、面倒な教え子だ。 「よし。少し早いが、今日はこの辺で切り上げるか。試験前は頭を休めるのが大事だからな」  まだ授業開始からは、一時間も経っていない。だが俺は、指導を終えることにした。  なぜなら、明日は二次試験当日。彼女の最終試験が控えているのだから。 「嫌、だよ。だってアタシ、まだ分かんないこといっぱいあるもん」 「最後の授業で今更何言ってんだ。もう実力は十分ついてるだろ。あとは、それを発揮するだけだ」 「どう発揮すればいいのか、分かんない」 「いつも通りやればいいさ」 「いつも通り? いつも通りって何? 試験中もセンセーがアタシの傍に居てくれるの?」 「そんなわけはないな」 「じゃあ、アタシ無理! 怖くて試験受けらんない!」 「いや、何言ってんだ。一次試験は普通に受けられたじゃないか」 「怖いったら、怖いの! これで最後だと思うと、怖いの!」 「……はは、そうか。怖い、か」  言われて、ふと三年前の自分を思い返してみる。  彼女と同じく受験生で、翌日に試験を控えていた時。一体俺は何を思い、どう過ごしていたのか。今となってはおぼろな過去を、反芻する。  思えば、俺も恐怖していたのかもしれない。  婆ちゃんに迷惑をかけるわけには行かないから、国立に行かざるを得ない。浪人なんて、もっての外。でも、本番で変なミスをしてしまうかもしれない。それで落ちたら、どうしよう。  義務感、不安、プレッシャー。確かに俺も、人並には怖いと思っていた。 「よし、いいだろう。質問承った。『恐怖の乗り越え方』の解説だな? 任せておけ。教師としてではなく、お前と同じくビビりな受験生の先輩としてアドバイスしてやろう」  まあ勉強を教えるよりは、簡単だ。最後に一仕事して、気持ちよく契約を終わらせるとしよう。 「恐怖ってのは、完全に消すことはできない。だから、怖い時は怖くて良いんだよ。怖いまま、立ち向かっていけばいいんだ」 「怖くても、いい……?」 「ああ。どうしても怖くて足がすくみそうになった時は、これまでやってきたことを思い出せばいい。  教科書に貼りつけた付箋の数だけ、お前は知識を身に付けてきた。  積み上げたノートの数だけ、お前は問題を解いてきた。  悩んで、苦しんで。流した涙の数だけ、お前は強くなった。  そうやって積み重ねてきたものは、きっと根拠のある自信に変わっている」  報われる保証もないのに、なぜ人は努力をするのか。それは大事な時に、自分を信じられるようになるためだ。  恐怖に抗える武器は、根拠のない傲慢な自信ではない。経験から培われた、確固たる自信なのである。 「だから、お前は頑張った自分を信じるだけでいい。いつも通りでいいんだよ。お前の努力を一番近くで見てきた俺が言ってるんだ。間違いない」  そして彼女は十分、恐怖に立ち向かう準備は出来ている。今は怖くても、試験に集中してしまえば、もう大丈夫だろう。  適度なプレッシャーは得てしてパフォーマンスを向上させるものだ。慢心しているより、よほどいい。 「ふふ……ふふふ。やっぱり、センセーはセンセー、だね……!」  瞳を微かに光らせて、少女は笑う。 「ハッ、何言ってんだ。当たり前だろ? 俺は家庭教師だ。最後の最後、今日という日まで。いつだって全力でお前と毎日を駆け抜けてきた、お前だけのパートナーさ」  別れ際。彼女が流す涙の理由は、分からない。けれど最後に残すべき言葉だけは、瞬時に口元から飛び出ていて。 「えへへ。センセーって、そんな風に笑えるんだね?」  どうやら、無意識のうちに。俺は百点満点のスマイルを献上していたようだ。 「どうだ? 明日、一人で頑張れるか?」  聞くまでもないかもしれないが、最終確認。改めて、決意を問うた。 「どうだろ。正直、分かんないや。自分を信じるとか、一番苦手だし。一人でがんばれる! って胸張って言うのは、アタシにはできないかな」 返ってきた言葉は、率直な不安を孕んでいて。 「でもね?」  けれど、反して表情は自身に溢れたものへと変わっていて── 「アタシは、アタシを信じてくれたセンセーを信じるよ! 一番信じられるものを信じて、『大丈夫だ』って言ってくれたセンセーのために、めいっぱいがんばってくる!!」  ──普段通りの笑顔で、グッと親指を立てた彼女は。もう何の心配もないと思えるくらいにたくましく、そして眩しかった。  ああ、そうか。  もう俺が教えられることは、何も無いんだな。  もうこの娘は、俺の教え子じゃないんだな。 「はは、そうかそうか。なら、それでいい。信じるだけなら無料(タダ)だ。好きなだけ俺を信じればいい」  言いようのない虚しさを感じつつ、最後に一言。鞄を手に取り、帰り支度を始める。 「よし! じゃあな、問題児! 俺が教えられることは、もう何もない! これで仕事納めだ!  まあ色々あったが、悪くない契約だったぜ!!」  努めて明朗に、別れの挨拶を告げる。  柄にもないだって? ああ、分かってる。根暗が無理して、気を張っているだけさ。  でも、最後はやっぱり笑顔でいたいだろう? どんな時代でも、笑ってサヨナラするのが一番綺麗じゃないか。  なんて、ありきたりな理想論を唱えつつ。表情筋がオーバーワークで震えていくのを感じながら、俺は扉の前に立つ。 「うん! 辛いこともあったけど、アタシもセンセーと会えて本当に良かった! 来年大学で会うことがあったら、その時はよろしくね!!」  もちろん、彼女も笑顔。合格後のことを考える余裕もでてきたようである。 まさに最後にして、最高の大団円。もう思い残すことは、何もない。  ──なのに今、胸が()くように寂しいのは。一体なぜなのだろうか。 「じゃあな」  正体不明の感情を押し殺し、踵を返す。  これ以上ここに居てはいけない。なんとなくそんな気がして、鉄のドアノブに手を掛けた。 「……はぁ。だから冬は嫌いなんだよ」  寒気のせいか。触れた金属は、やけに冷たかった。
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