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「えっ?!は?!……じ、じぶ、自分…に?!」
「はい。いつも町を守って下さり、ありがとうございます。巡査さん。」
…そうして、弾けんばかりの笑顔で渡された、手のひらに収まる程の、小さなチロルチョコ。
口に入れた瞬間、今まで食べたどんな甘味より甘くて、甘くて…胸が高鳴ってきて…
いけないと分かっていても、僕は彼女に、一目惚れした。
*
「こんにちは!巡査さん!」
「あっ、は、はい。ここっ、こんに、ちわ。な、棗さん。」
商店街から程近い所にある、古びた交番に
配属されて2年目の寺沢竹史(てらさわたけし)は、笑顔で挨拶をする買い物帰りの絢音に敬礼をする。
「毎日大変ですね。暑いのに街の見回りや雑務。尊敬します。」
「い、いいえ!!そ、そそっ、それが、じ、じ、自分の任務なので!!と、当然で、あ、あります!!」
「そんな事ないですよ。立派です。だから、ハイ。ご褒美です。」
「はっ!?えっ!?」
狼狽する竹史の手に、絢音はウィンクして、ピンクのラッピングされた包みを渡す。
なんだろうとリボンを解いて中身を見ると、格子柄やチョコチップの入った、色とりどりの手作りと思しきクッキー。
「料理教室で作ったんです。でも、作りすぎちゃって。巡査さん、甘いものお好きでしたよね?良ければ受け取って下さい。」
にっこり笑ってそう言う絢音に、竹史の心臓はバクバクと高鳴り、ありがとうと言いたいのに、生来の口下手も相待って、言えなくて、結局、無言で頷き、そのまま彼女を見送った。
「なんだぁ〜?まあた言えなかったのかお前。あの美人妻に。俺絶対、あの美人お前に気があると思うぞー。なあ、告ってみろよ。」
「ば、ばばっ!バカ言わないでください先輩!!じ、自分は警官です!!ほ、法を犯すなん、てっ!!」
机で雑務をしていた、一部始終を見ていた先輩警官にそう煽られるが、竹史は首を激しく横に振る。
でも…
「棗さん…」
手のひらにすっぽり収まるクッキーの一つを摘み口に入れ、大好きな甘い味と、絢音の姿に胸をときめかせる男の自分と、警察官として、人妻との不貞をはたらくと言う法を犯す事への罪悪感が複雑に混ざり合い、竹史ははあと、重いため息をついた。
*
「ただいま…」
誰もいない家に帰宅を告げ、竹史は長屋街の奥から2番目に入る。
服を着替え、お風呂を沸かしていると、呼び鈴が鳴り、竹史はビクッとする。
「は、はい!!」
玄関に行くと、絢音がタッパーを持って和かに立っていた。
「おかえりなさい。巡査さん。はい、これ、鯛の昆布締め。おかずにどうぞ。」
「た、鯛?!そ、そんなこ、高級なもの…」
「いいんです。サクをたくさん買いすぎて余らせただけですから。お仕事大変だったんだから、しっかり食べて下さい。」
「あ、ありっ、ありがとう…ございます。あ!でも、た、タッパー…」
「いいです。またまとめて取りに伺いますから。じゃ。」
そうして、隣の3番目の長屋に入って行く絢音を見て、竹史はまた重く息を吐く。
「ダメだって、分かってるだろ…」
あの交番に赴任が決まった時に借りた長屋の隣に絢音がいたのを知ったのはつい最近。
以来、何かと世話を焼いてくれる絢音に、気持ちは募るばかりだが、夜になると、その思いは踏み躙られる。
「あ……や……とうじ、さん…」
薄い壁の向こうから聞こえる、切なげに悶える絢音の喘ぎ声。
今夜もかと、竹史はそっと壁に耳を寄せる。
「とうじさん…とうじさん…もっ…あぁ…」
−とうじ−
それが、顔も知らない彼女の夫。
壁の向こうで、彼女の本当の姿を見れる、唯一の男。
この男がいる限り、絢音と結ばれることはない。
憎くて、憎くて、仕方ないはずなのに…
「(絢音さん…本当に旦那さんのこと、好きなんだな…)」
壁の向こうから聞こえてくる絢音の声は、本当に幸せそうで、幸せそうで…
やるせない思いを飲み下すように、竹史は缶ビールを呷った。
*
「はあ……」
翌日の夕方。
昨夜の絢音の艶めかしい声が忘れられなくて、悶々とした頭を抱えながらも、交番の前に立ち、眼前に広がる黄昏の京の街を見つめる。
「平和…だなぁ〜」
今日も何事もなく終わっていく。
海の向こうでは、あれやこれやと対立しては戦火が上っているのに、この国は本当に平和で…時々自分の存在意義を自問自答してしまう。
刑事の父に憧れ警察官を志したが、配属されたのは地域課…いわゆる「街のお巡りさん」。
職務に優劣などないと思いつつも、この日常に、竹史は僅かに退屈を覚えていた。
けど、絢音に出会って恋をしてからは、この街にいたいと、彼女の住む街を守りたいと思うようになり、少しだが職務に向き合う姿勢も変わり始めた。
そう言った意味でも、絢音は自分にとって大切な存在で…
「巡査さん?」
「えっ?!あ!わっ!!」
急に呼ばれて我にかえると、絢音が至近距離で不思議そうに自分を見上げていたので、竹史は思わず仰反る。
「どうしたんですか?ボーッとして。」
「あ、いや、別に…」
下から絢音を見下ろすと、ブラウスの隙間から胸の谷間が見えて、昨夜の艶めかしい声が頭に蘇り、バクバクと心臓を鳴らしていると…
「きゃあ!!」
「!?」
いきなり絢音が悲鳴をあげる。
背後を見やると、黒ずくめの男が彼女のバックを引ったくっていた。
「ま、待て!!!」
警察官の前でよくも堂々と…
しかも、大切な絢音に…
怒りに肩を震わせながら犯人を追いかけていると、通りの真ん中に仁王立ちした、スーツ姿の男が視界に入る。
「どけぇぇ!!」
ひったくり犯が男にがなった瞬間だった。
男は彼を軽々と投げ飛ばし、地面に這いつくばらせると、腕を締め上げる。
「ほい。窃盗の現行犯。あとよろしゅう。」
「あっ、えっ、は、はい…」
戸惑いながらも、ひったくり犯の腕を取り手錠を掛け、スーツの埃をパタパタと払いながら、盗られた絢音のバックを拾い上げる男を見やる。
「あ、あのっ!そのバックは…」
「藤次さん?!」
「?!」
背後から聞こえた絢音の声に、竹史は瞬く。
−とうじ−
この男(ひと)が…絢音の…?
「どうしたの?こんなとこで…」
「どうしてて、この近くで聞き込みしとったらお前の悲鳴聞こえたさかい行ってみたら見慣れたバック持って走ってくる男来よったから…」
「だからって、違ってたらどうするのよ!?藤次さんが傷害になっちゃうじゃない!」
「そやし、どけぇ言うたやろ?ちゅーことは、逃げたい。後ろめたいことある。そんで手には、不似合いな女物のバック。ひったくり犯確定やん。」
な?と言う藤次に、絢音と竹史は目を丸くする。
「な、なんね。」
「う、ううん…ホント藤次さんて、検事さんなんだなぁ〜って、感心しただけ。」
「なんやそれ。褒めとんかい貶しとんかい。それとも…惚れ直したか?」
「ば、バカっ!!」
そう言って仲睦まじく話す2人を竹史は呆然と見ていると、視線に気がつき、藤次が屈託なく笑う。
「おおきにな。ウチの愛しい嫁さん、守ろうとしてくれて。」
「あ、いや、じ、自分は、し、職務ですから…」
「んーー…まあ、言われてみればそっか。野暮言うたな。堪忍。絢音…嫁さんはワシが送っていくさかい、犯人頼むえ?」
「あ、はい…」
「ん。ほんなら絢音、行こう?」
「う、うん!じゃあ、巡査さん!また明日!!本当に、ありがとうございます!!」
そうして肩を抱いて抱かれて通りを歩いていく仲の良い2人を見つめる内に、竹史の頬に涙が伝う。
「なんで…あんなの…敵うわけないじゃないか…」
離せとがなるひったくり犯を連行しながら、竹史は1人涙を流す。
平和ボケして、目の前の犯罪を許してしまったこと。
絢音を、守れなかったこと。
任務を全うしようとしたら、最も簡単に、恋敵と思っている相手に横取りされたこと。
言いようのない敗北感に苛まれ、竹史は犯人を所轄署に渡してからも、ずっとどんよりした気持ちを抱えていた。
*
「ただいま…」
夜。
誰もいない家に帰宅を告げ、竹史は泣き腫らした顔で家に入ると、直ぐに隣の引き戸が開く音がしたので、振り返る。
「巡査さん。おかえりなさい。」
「あ…」
目の前には、何かの食べ物を持った絢音と藤次。
「驚いたわ。まさかあの警官はんがお隣さんやったなんて。さっきはホンマおおきに。これ、ウチの嫁さんの得意料理の鶏カラ。冷めてもうまいさかい、食べ。」
「あ、え…」
グイッと皿を腕に押し込まれ戸惑っていると、絢音が敷居を跨いで玄関に入る。
「巡査さん。今日は本当にありがとうございました。これ、下手ですけど、チョコレートケーキです。お礼に…」
「い、いえ…じ、自分は…なにも、ぜ、全部、ご、ごご、ご主人が…」
溢れてくる涙を見られたくなくて俯いていると、絢音がハンカチでそれを拭う。
「な、棗さん…」
「そんなことないです。バック取り返そうと、追いかけてくれたじゃないですか。とってもカッコよかったですよ?」
まあワシには劣るがなと言う藤次に構わず、絢音はにっこり微笑む。
「だからこれからも、守って下さいね?巡査さん。」
「は、はいっ!じ、自分、精一杯、守ります!!」
そうして唐揚げなど構わず絢音を抱きしめようとしたときだった。
「あかんえ?巡査はん?」
「へっ?!」
顔を上げると、笑顔だが目は笑ってない藤次の顔。
その言い知れぬ迫力に、竹史は後退りすると、藤次は絢音を抱き寄せる。
「ま。これからも「俺ら」夫婦のおる街、守ってや。巡査はん。」
そうして絢音の手からケーキを取り上げると、それを靴箱の上に置いて、まだ良いじゃないと言う絢音の肩を抱いて、自分達の家へと戻っていく藤次の異常ともいえる牽制に、竹史は盛大に息を吐き出す。
「こういうのを、蛇に睨まれた蛙って言うのかな?」
だらりとかいた汗を拭いながら、取り敢えず、藤次を敵に回すのは止めようと、竹史は本能的に悟ったのでした。
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