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「…あれ?」
「どうかしましたか?検事。」
いつもと変わらない時を刻む、京都地方検察庁。
調書を整理していた賢太郎が声を上げたので、デスクでスケジュール管理をしていた稔は瞬く。
「これ、棗の字だ。混ざったのか?」
一冊の調書を手に取り、パラパラと捲る。
「…うん。間違いない。すまん笹井、棗に届けてくれるか?」
「あ、ハイっす!じゃあ、自分そのまま、食事に出ますね。」
「ああ…もうそんな時間か。良いぞ。」
「ハイっす!!」
言って、稔は検事室を後にする。
「…………」
窓ガラスに映る自分を一瞥して、ネクタイを締め直し、肩にフケや埃がついてないか確認して、少し緊張した面持ちで、エレベーターの昇降ボタンを押す。
「いつも通り…いつも通り…」
呪文のように呟いて、稔は藤次のいるフロアへと進む。
ドアの前で、もう一度深呼吸してノックすると、入ってええでと、流暢な関西弁が耳をついたので、扉を開ける。
「失礼します。棗検事、少しお時間よろしいでしょうか?」
部屋には、うず高く積まれた調書と書類の山が乗った頑丈そうな机。
名札は「検事 棗藤次」
そしてその右手側、検察事務官の席には…
「笹井君、お疲れ様。」
「京極さん!お疲れ様ッス!!」
ペコンと、勢いよくお辞儀をする稔。僅かだが、頬が紅潮するのが分かる。
「(平常心…いつも通り…)」
心の中で呟き、彼女の元を横切り、藤次の元へ行く。
「楢山検事から、預かり物をしてきました。どうぞッス!!」
ガサッと、書類の山が動き、藤次が箸を咥えた顔を出す。
「楢山から?なんやろ…」
差し出された調書を受け取り、パラパラと捲る藤次。
その手元には、曲げわっぱの弁当箱にぎっしり詰められた、彩り鮮やかな…手作りと思しき弁当。
「わあっ…」
「?」
思わず、感嘆の声が漏れた。すると、藤次が不思議そうに自分を見上げるので、慌てて取り繕う。
「あっ!いやその…お弁当、美味しそうだなって。奥さんッスか?」
「なんや笹井、欲しいんか?」
「いやその…」
「ホラ、やる。」
ちょんと、藤次が箸で摘んだのは、筑前煮の人参。
仕方ないので、パクリと口に運ぶと、出汁の風味が口いっぱいに広がる。
「美味しい…美味しいッス検事!!」
その言葉に、藤次は自慢気に笑う。
「せやろ?ワシの嫁さんの得意料理やねん!ラッキーやったな?食えて。」
「ハイっす!」
「なにがラッキーですか。そうやって、嫌いなもの人に押しつけて、ずる賢いんですから…」
「へっ?」
振り返ると、ため息混じりにサンドイッチを口に運ぶ佐保子。その言葉に、藤次は苦笑いを浮かべる。
「言いなや京極ちゃん。残すと悲しむねん。」
「だからって、毎回私に押し付けるのやめて、素直に奥様に言ったらどうです?」
「アカンて…そないカッコ悪いこと、よう言わん。」
「まったく…」
ため息をついて、佐保子は稔を見上げる。
「ごめんね笹井君。検事のワガママに付き合わせて…」
「と、とんでもないっす!!自分、手作りとか全然無縁で…だから、感動して…」
「なんや笹井。飯作ってくれる彼女、おらへんのか?」
「!!」
ニヤニヤと笑う藤次の口から出た言葉に、稔は顔を真っ赤にする。
「検事!そんなプライベートな事、セクハラですよ!?」
「そう言う京極ちゃんも、毎日コンビニサンドイッチ…弁当作る彼氏、おらへんの?」
「!!」
忽ち真っ赤になる2人を、藤次は満足そうにみる。
「意中のもんがおらんのやったら、おらんもん同士、仲良うしてみたらどうや?お似合いやと思うけど?」
「だからセクハラ…」
「自分は!!」
「!!」
いきなり稔が声を張り上げたので、藤次と佐保子は揃って瞬く。
やや待って、稔は佐保子の机に向かう。
「自分は、セクハラとか迷惑とか、思ってないっす。」
「笹井君?!」
戸惑う佐保子に向かって、稔は深々と頭を下げる。
「友達から、お願いします!!!」
*
「あっはっはっ!!そりゃあまた、とんだキューピッドだったわねぇ…佐保子。」
夜。京都市内のイタリアンレストラン。
検察事務官安藤夏子は、愉快そうに笑いながら、白ワインを口に運ぶ。
「良い迷惑よ。自分が幸せだからって、人にまで押しつけないで欲しいわ…」
ペペロンチーノをフォークに巻き付け口に運ぶ佐保子を、夏子は意味深に微笑み見つめる。
「あら。本当に、迷惑だったの?」
「それは………正直、よく分かんない。付き合うとか、そう言うの。」
「ふぅん。…ま。悪いけどアタシは、検事と同意見かな?他に好きな人とかいないんなら、取り敢えず付き合ってみたら?笹井君、悪い人じゃなさそうだし?」
「けど…」
「けど?」
「ううん。なんでもない…」
「?」
不思議そうに自分を見つめる夏子に構わず、佐保子は運ばれてきたベリーのジェラートを口に運んだ。
*
それからと言うもの、佐保子はお昼を稔と過ごすようになった。
外や庁内の施設は照れ臭かったので、互いの上司のいる検事室で食事を摂るという、なんとも奇妙な体だった。
「楢山検事も、毎日愛妻弁当ッスよね!羨ましいッス!」
「ああ。まあな。」
その日は、稔の上司賢太郎のいる検事室で食事をしていた。
藤次の華やかな弁当とは異なり、昨夜の残り物らしきものが詰め込まれた、彩りとは無縁な弁当だったが、稔は羨ましそうにそれを見つめる。
その横顔を見ながら、佐保子はポツリと呟く。
「笹井君も、欲しいの?お弁当…」
「へっ?!」
顔を真っ赤にして瞬く稔だが、やや待って、決心したように口を開く。
「欲しいッス!他の誰でもない、京極さんの手作り弁当…食べたいッス!!」
「………分かった。じゃあ、月末まで、待って。」
「は、はいッス!!自分、いつまでも待ちます!!」
「うん。そろそろ時間だね。私、戻るから。失礼しました。楢山検事。」
言って、佐保子は検事室を後にする。
「…しゃあっ!」
小さくガッツポーズする稔を一瞥して、賢太郎は薄く笑う。
「なかなか…甘酸っぱい青春だな。」
「………」
カツカツとヒールを鳴らして、佐保子は上司の待つフロアに向かい、扉を開く。
「おう!おかえり京極ちゃん。どうやった?デート?」
ニヒヒと笑う藤次の元に向かうと、佐保子はバンと、彼の机を叩き詰め寄る。
「言い出しっぺは検事なんですから、責任…取ってもらいますからね!!!」
「えぇ……」
*
「ここかな?」
日曜日。とあるメモを片手に、佐保子は京都市内の小さな路地に佇む長屋の一軒の前にいた。
表札には「棗」の文字。
ドキドキしながら呼び鈴を押すと、引き戸が開き、普段着姿の藤次が現れる。
「おう。迷わず来れたやん。上がり。」
「はい。お邪魔します。」
玄関に入ると、きれいに整えられた趣味の良い調度品が並び、季節の花々が、静かに自分を出迎える。
「ここ…ホントに検事のお宅なんですか?」
「さり気に失礼なやっちゃな。ま。嫁さんの趣味やから、仕方ないか…絢音、京極ちゃん、来たで?」
「はい。」
居間に通された瞬間、優しく微笑む絢音が出迎えてきたので、佐保子はたちまち赤面する。
「あのっ!今日は無理なお願いをして、申し訳ありません!あの…私…」
すっかり萎縮する佐保子に、絢音は優しく笑いかける。
「良いのよ。事情は、藤次さんから聞いてるから…じゃ、始めましょうか?」
「は、はい!」
「藤次さん。邪魔しないでくださいね?」
「へぇへ。ほんなら、2階で野球でも観ようかの。今日は阪神、天王山やし。」
言って、2階へ上がって行く藤次を優しく一瞥して、絢音は佐保子に向き直る。
「じゃあ、先ずは野菜の切り方からね。」
*
「すみません。本当に、私なんかのために…」
危な気に包丁を握る佐保子にアドバイスしていると、不意に彼女が言うので、絢音は眉を下げる。
「なんかなんて、言わないで?素敵じゃない。好きな人の為に、苦手なお料理…頑張ろうって。」
「………分からないんです。まだ、好きとかそう言うの。」
ストンと、乱切りされた人参を見つめながら、佐保子は続ける。
「正直、検事が言うまで、笹井君…彼の事、何とも思ってなかったんです。笹井君だけじゃない。男の人に私、興味持てなくて…」
「でも、作ってあげたいって思ったから、ここに来たんでしょ?彼の喜ぶ顔が、見たくなったんでしょ?」
「………」
蓮根の皮を剥き、一口大に切り、鶏肉を切り、いよいよ筑前煮の材料が揃いはじめ、佐保子の胸はドキドキと高鳴る。
脳裏に、これを美味いと頬張る稔の顔を想像すると、胸の奥がキュンと締め付けられ、息をするのも苦しくなる。
…これが、恋なのか…
でも…
「…奥様は…検事のどんなところに、惹かれたんですか?」
「えっ!?」
瞬く絢音に、佐保子は詰め寄る。
「だって!検事って女性にだらしないし、好き嫌い多いし、すぐ理由つけてサボろうとするし…それに…それに…」
キュッと、エプロンを握る手に力がこもる。
自分でも、何を言っているのか分からない。一体、何が正解なのか、どうしたらいいのか…
訳もわからず俯いてると、絢音がゆっくりと彼女の肩を抱く。
「藤次さんの事、好きなのね?」
「ち、違います!アタシ…」
「分かるわよ。女同士じゃない?」
にっこり笑う絢音に、佐保子は小さく頷く。
「あの…秘密に、していてもらえますか?」
「うん。秘密。約束するわ。」
唇の前に指を立ててウィンクする絢音に、佐保子はホッと肩を下げる。
やや待って、台所に甘辛い匂いが立ち込める。
「お。美味そうな匂いやん。なんや京極ちゃん、やればできる子やん?」
負けた負けたと愚痴りながら降りてきた藤次だが、台所から漂う匂いを嗅いだ瞬間、顔を綻ばせ、盛り付けを手伝う佐保子を見やる。
「先生が良かったからです。ホントに、検事には勿体無い人ですよ。」
「へぇへ。どうせ、美女と野獣や。」
「まったくです。」
そうして3人で食事をして、佐保子は稔の弁当の分をタッパーに入れて帰宅する。
「(藤次さんの事、好きなのね?)」
「ホントに、敵わないや。アタシ…」
怒りも悲しみもない。ただ、藤次という1人の男性を愛する者同士として、受け入れられて…嬉しい反面、悲しくて、佐保子の頬に、一筋の涙が光った。
こうして、一つの恋が終わりを告げ、稔と約束した月末がやってきた。
朝からソワソワと落ち着かない素振りの稔に、賢太郎は小さくため息をつく。
「男だろ。舞い上がってないで、どっしり構えてろ。」
「ですが検事…」
情けない声を上げていると、扉が開き、佐保子が現れる。
「き、京極さん!お疲れ様ッス!!」
「うん。お疲れ様。」
言って、手にしていたブルーの風呂敷に包まれた弁当を、稔に手渡す。
「筑前煮。棗検事の奥様に教えてもらったの。奥様には、負けるけど…」
「良いッス!!自分は、京極さんの味が、欲しいッスから!!」
風呂敷を開き、箸をとり、生唾を飲み込んだ後、稔はゆっくりと、筑前煮を口に運ぶ。
「……美味い!!美味しいよ京極さん!!俺…自分、こんな美味しい料理、初めて…」
ボロッと、顔を真っ赤にして涙を流す笹井に、佐保子は優しく笑いかける。
「佐保子で良いよ。稔君…」
「じゃあ……!!」
破顔する稔に、佐保子はもう一度笑ってみせる。
「うん。改めて、宜しく。」
刹那。勢いよく稔が席から立ち上がったかと思うと、彼の腕が、佐保子を強く抱き締める。
「…大事にする。絶対、後悔させないから。」
「うん……」
そうして暫く抱き合っていたが、賢太郎が居心地悪そうに咳払いをしたので、2人は慌てて距離を取る。
「じゃあ、また。」
「うん。また、後でね。」
そうして別れを告げて部屋を後にすると、何かの所用か、藤次がこちらにやって来る。
「なんや。もうちょいゆっくりしとって良かったんやで?デート。」
その言葉に、佐保子は小さく微笑む。
「ホントに、大きなお世話です。検事のクセに…」
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