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「ほんなら、今日も楽しかった。またな。絢音。」
「はい。私も、楽しかったです。じゃあ…失礼します。棗さん。」
そう言って、駅の改札を抜けて行く絢音の小さな背中を見つめながら、藤次はため息をつく。
「いつまで続くんやろ。こんな関係…」
*
「名前呼び?」
「せやねん。」
正午の、京都地検から程近い定食屋。
相談があるからと昼飯に誘ってきた腐れ縁の口から出た言葉に、賢太郎は瞬く。
「彼女になんて言うたら、名前で呼んでもらえる思うか?」
「なんだ。彼女でもできたのかお前。」
「い、いやその…せや!と、友達に相談されてん!せやけどワシ、色恋相談苦手やし…やから、お前の意見…聞いてみよかなぁて。」
「友達…ねぇ…」
カツ丼を頬張る藤次の顔が俄に赤いので、相変わらず、嘘や隠し事の下手なヤツだと心の中で呆れたが、気づかないフリをして騙されてやろうと思い、賢太郎は口を開く。
「素直に言えば良いんじゃないか?名前で呼んで欲しいって。」
「やっぱり、それが一般論かぁ〜。」
「急に呼ぶのは恥ずかしくても、「実はずっと○○って呼びたいって思ってたけど、恥ずかしくて。いやかな?」みたいに相談ぽく言ってみたらどうだ。」
「うーん。」
茶を啜り、次の一口をと迷い箸をしながら、藤次はポツリと呟く。
「ほんまはな。好きって言ってもらった事も、ほぼないねん。せやから、浮かれとんのはワシだけなんかなぁて、不安で…夜も寝られんくらい…苦しい…」
…付き合って3ヶ月。
告白した時にキスこそしたが、絢音は滅多に自分に好きと言ってくれたこともなければ、自分から手を繋いだり、キスをねだることも殆どなく、以前のような友達以上恋人未満な距離が、藤次はたまらなく不安だった。
しかし、彼女が男性に対して嫌悪と恐怖を持っている事を知っているだけに、無理強いして嫌われてしまうのも怖くて…
しょげる藤次を一瞥した後、賢太郎はまた口を開く。
「…夜の鴨川べりとか、ムードがあって良いんじゃないか?身体を寄せ合って夜景でも見てれば、気分も盛り上がると思うが?」
「そんなベタな…中坊みたいな方法で、ええんかな?」
不安げな顔の藤次に、賢太郎は優しく笑いかける。
「一番効果的だから、ベタって言うんだよ。「友達」に、よろしくな。」
*
「すみません。私ったら、自分の買い物ばかりして…」
「ええよ。欲しい本見つかって良かったやん。ワシも、珍しい法律の論文誌とか見れて勉強なった。ええとこ教えてくれて、ありがとうな。」
「いえ。」
金曜日の夜。賢太郎に言われた通り、鴨川沿いの店を歩いて時間を潰し、陽が落ちた夜半期、河原にやってきた藤次は、キュッと唇を噛んで、繋いだ手をキツく握り返す。
「棗さん?」
不思議そうに自分を見上げる絢音に、藤次は静かに告げる。
「少し歩き疲れた。川縁座って、休まへん?」
「あ…はい。」
「ほんならこっち。来て…」
言って、彼女の手を引き、川縁に等間隔と言う暗黙のルールに則り腰を下ろして、肩を抱き寄せる。
「寒ない?」
「あ…はい。大丈夫です。」
「そんなら、良かった…」
言って、名前呼びして欲しい気持ちを告げよう告げようと頭で考えているが、胸が苦しくて喉が詰まって、声が上手く出なくて、黙って川のせせらぎを聴いていたら、絢音が徐に口を開く。
「京都に来て、鴨川で、好きな人とこうやって座るの、憧れだったんです。だから今、凄く嬉しいです。」
「えっ……」
今、確かに彼女は…自分の事を、好きと…
「せ…」
「はい?」
「せやったら、なんで名前で、呼んでくれへんの?藤次って…」
「だ、だって棗さん…5つも年上じゃないですか?名前で呼ぶなんて、失礼ですよ。」
「せやけど、ワシ君の…いや、お前の彼氏やろ?彼氏に遠慮とか、しなや。それともやっぱり、迷惑なんか?ワシの事…」
「そんな事ないです!私、好きです。ちゃんと好き。でも…さすがにいきなり、と、…だなんて、呼べません。」
顔を赤らめ俯く彼女を見て、藤次は複雑そうに笑って、頭と頭を寄せるように身体を密着させる。
「……ごめん。ワシ、困らせるつもりなんて、なかってん。ただ、お前の特別に、なりたいだけやねん。尊敬してくれんのは嬉しいけど、もっと気安ぅなって?好きや言うてくれたんは、嬉しかった…ありがとう。」
「いえ…」
そうして見つめあっているうちに、互いの心音が高鳴ってきて、藤次は徐に彼女の顎のラインをなぞりながら耳に触れて顔を上げさせると、優しくキスをする。
唇の感触を味わうように、何度も離しては口付けてるうちに、もっとしたくなって、舌で唇を舐めると、驚いたように口が僅かに開いたので、彼女の口腔に、初めて舌を滑り込ませる。
「ん…」
舌で舌を舐めて、逃げようとする身体を抑えて、繋がってる喜びに酔いしれて、辿々しく動く舌を絡め取り吸い上げて、ゆっくりと糸を引きながら唇を離すと、絢音が小さく言葉を紡ぐ。
「藤次…さん…」
「!」
真っ赤な顔で俯く彼女につられて、藤次も思わず赤くなる。
「この呼び方で…許して、くれますか?」
「許すも許さんも、めっちゃ嬉しい…なあ、もう一度、呼んで?藤次さんて…好きやて。」
詰め寄る藤次に、絢音は照れながらも、彼を見つめて小さく言葉を紡ぐ。
「藤次さん…好きよ…」
「っ!!」
嬉しくて嬉しくて、彼女を強く抱きしめて、耳元で囁く。
「明日土曜や。ワシの家来て?…抱きたい。朝まで…離したない…」
「……ごめんなさい。気持ち、凄く嬉しいんだけど、私今、生理で…」
「ほんなら、抱き合って寝るだけでもええ。とにかく、呼んでもらえた記念に、一緒に朝…迎えたい。あかんか?」
「…………分かり、ました。」
消え入りそうな声で頷く彼女を連れて家へ帰り、シャワーを浴びて、下ろしたての自分のシャツを着てはにかむ絢音が可愛くて、抱きたくて仕方なかったが、そう言う気持ちを必至に抑えて、一つのベッドで腕枕をして、幸せそうに眠りに落ちて行く…自分と同じ匂いのする絢音の寝顔を見つめながら、藤次も静かに眠りに落ちた。
*
「……ん。」
朝。
香ばしい味噌汁と焼き魚の匂いに促され目覚めると、隣にいた絢音がいないので、不思議に思いながらも階下に降りたら、台所に立つ、自分のブカブカのシャツを着た、小さな背中。
「あ…」
互いに顔を見て赤くなっていたら、絢音が徐に口を開く。
「ごめんなさい。冷蔵庫…勝手にいじっちゃって…」
「ええよそんなん。なんもなくて、びっくりしたやろ?」
「少しだけ…外食も良いですけど、ちゃんと作って食べないと…身体に毒ですよ?」
「ほんなら…」
「はい?」
「いや…うん。気をつけるわ。」
「?」
不思議そうに自分を見つめる絢音。
本当は、ここで飯を作って待ってて欲しいと言いたかったが、それではまるでプロポーズのように思えて、恥ずかしくて俯いてると、腹が盛大に鳴ったので、絢音は吹き出す。
「食べましょう?簡単なものですが…」
「うん。」
頷き、ちゃぶ台に座ってご飯を受け取り、いただきますと一緒に言って、白米を一口口に運ぶ。
「…美味い…」
不思議だった。
いつもと変わらない、買い置きの白米で炊かれたはずなのに、今まで味わった事のない旨味が口の中に広がって、夢中になって掻き込む。
だし巻き卵は、砂糖多めの…出汁好きの自分の好みでは正直なかったが、自分の為に作ってくれたのだと思うと嬉しくて、嬉しくて…魚の骨一本残すのも惜しいくらい綺麗に平らげた藤次を見て、絢音は幸せそうに笑う。
「良かった…お口に合って…」
そうして、彼を見据えて、静かに言葉を紡ぐ。
「まだ、言ってなかったですね。おはよう御座います。藤次さん…」
「うん。おはよう…絢音。」
…こうして、また少し、2人の距離が縮まり、初めての朝と、初めて名前を呼んでもらえたと言う思い出が、藤次の心に確かにしっかりと、刻まれた。
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