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それから程なく、父が酒場で喧嘩の末急死した。
母は、悲しむ間もなく新しい男とあっさり再婚。これがジャックにとって幸運をもたらした。
新しい父は学問に理解があり、ジャックは堂々と学校に通えるようになり、勉学に励むことができた。
そして、大学入学試験を受けて合格。
正式に学校を卒業していないジャックが受かったことは前代未聞であった。
成績優秀なジャックは、奨学金を受けて首席で卒業した。
官職の国家試験にも受かり、労働者階級の出身でありながらクルスス・ホノルム(名誉あるキャリア)となった。
しかし、ジャックの心はいつまでも晴れることがなかった。
それは、あの本のことが頭の片隅に常にあったからだ。
「いつかは返さなきゃ」
ずっと気に掛かっていた。
クルスス・ホノルムとなって数年経ち、お金持ちの娘と結婚までしたジャックは、ついに本の返却を決意した。
その頃には、盗んだ相手がローマ大学の高名な哲学者であることも知っていた。
その本は、彼にとってどれだけ大切なのかもよく分かっていた。
ここで名乗り出れば、盗人のそしりは免れず、罵倒されるだろう。
築き上げてきた地位も名誉も全てを失うかもしれない。
黙って返せば免れるかもしれなかったが、ジャックはあえて名乗り出て直接返そうと決めた。
この本があったから、今の自分がいる。
どうしても、直接感謝の言葉を伝えるべきと考えた。
捕まることも覚悟の上で、ルキウスの元に向かう。
とても怖かった。恐ろしかった。何度も引き返そうかと思い、家の前を何往復もした。
「ええい、ままよ」
覚悟を決めて、ルキウスの家のドアを叩く。
ルキウスは、高級キャリアであるジャックの突然の訪問を疑問に思いながらも歓迎した。
「これはこれは、珍しい客人で。本日はどのようなご用件ですか?」
あの時見たよりもかなり老けていたが、当時の面影がある。
ジャックは、本を差し出した。
「これは!」
ルキウスは、一目でそれがかつて盗まれた自分の本だと分かった。
「盗んで申し訳ありませんでした」
「まさか、あなたが?」
ルキウスは、信じられないという顔で頭を下げるジャックを見ている。
「私は貧しい労働者階級の出身です。何も知らなった私は、あなたからこの本を盗みました。無知で、無恥で、無学でした。だけど、私はこの本と出合ったことで人生が変わりました。この本を読みたくて、必死に勉強しました。その結果、勉強が楽しくなって大学に進学し、官職につきました。今ではたくさんの部下を率いています。まるで夢のようです。全てはこの本のお陰です。感謝してもしきれません。本日はどうしても直接お礼を伝えたくて持参しました」
感謝の言葉と共に謝罪し、本を返却した。
ルキウスは、本が手垢で多少汚れていても傷一つないことを確認した。
とても大切に扱われていたことに感激した。
「これは、君の元にあるべき本だったのだろう。全てはなかったこととして水に流そう。私はあの日神に約束した。返してくれれば罪に問わないと。たとえ何十年かかろうとも、それは変わらない」
「先生……。寛大な御心に感謝します」
ジャックは、ルキウスの足元ひれ伏し、恭しく靴のつま先にキスをした。
自分は沢山の人に支えられてきたから今があると思うと、自然とジャックの目に涙が溢れるのであった。
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