スノードーム

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 穏やかな風が抜けると草の匂いが立ち込める。羊たちは黙々と草を食んでいる。海を望むこの場所は僕のお気に入りだ。 「ミント、見つけた。また寝ているでしょ?」  僕の帽子を取り上げ覗き込むのはマリーだ。 「大丈夫だよ。牧羊犬がいるから迷子は出ないし、帰る時間は時計が知らせてくれるよ」  僕の仕事は羊飼いだ。岩場が残る草原を食べ尽くさせないように毎日移動しながら雌の羊に草を食べさせ子を産ませミルクを搾る。雌の羊の草を取らないように繁殖用の雄の羊を監視するのが仕事だった。  マリーの仕事は草原で種を集めると苗床で育て岩場の窪地に植えていく事だった。  僕たちの兄弟姉妹は岩を砕き磨り潰し羊の糞を混ぜて土を作る係。磯で魚を釣る係。魚を加工する係。土のない大陸で生活をするには子供には子供なりの仕事があった。  アラームが鳴った。羊を小屋に戻す時間だ。白夜の季節は暗い場所で寝かしつけないとミルクの出が悪くなる。時計を持つのは羊飼いの証でもあった。  口笛を吹くと牧羊犬が散らばっていた羊を一か所に集め家路に向かわせた。僕とマリーはその後ろを歩きながら迷子が出ないように目配りをしていた。 「ねぇ、マリー。もうじきパパたちが帰ってくるよね。お土産は何を頼んだの?」  パパたちは天候が安定している時期に海に出る。一番近い島伝いに北上を続け、昔の都市から生活に必要なものを集めて来るのが仕事だった。 「本を頼んだよ。昔の世界には色々な本があったんだ。物語の本。植物の本。動物の本。料理の本。沢山あったんだ」  マリーは家族の中でも一番本が好きだった。白夜の季節は何時でも本が読めた。誰よりも先に起きると本を読んでいた。誰よりも遅くまで本を読んでいた。そして、村にある本は全部読み終わった。もしパパたちやママたちが子どもの頃までは使えていたタブレットがあれば、村にある何百倍もの本がその中にはあったと一人のママが教えてくれた事があった。 「ミントは知っている? 昔の世界には羊や犬以外にも沢山の動物がいて羊の何倍も大きい牛と言うのから飲み切れないほどのミルクを搾れたんだよ。他にも人を乗せてどこまでも運んでくれる馬とか、縫いぐるみみたいに可愛い猫とか。空を飛ぶ鳥もいたんだ。船もパパたちのよりも大きくて村が何個も入るくらい大きな船もあったんだ」  マリーは本の話になると目をキラキラ輝かせる。  昔の世界には海には船があり、陸には列車があり、空には飛行機が村の人たちより遥かに多い人たちを一度に遠くまで速く運んでいた。パパたちが目指している昔の都市にも一日で行く事が出来たとママたちが話してくれた事があった。 「ミントはお土産に何を頼んだの?」  ポケットから小さなスノードームを取り出した。爺ちゃんが僕に残してくれたものだ。  マリーは小さなドームに顔を近づけ雪が降り積もる小さな建物を見入っていた。 「きれい・・・。これって雪だよね? 本で読んだ事がある」  マリーは何度も逆さにすると雪の降る世界を見入っていた。 「マリー、僕は雪を見たいんだ。爺ちゃんがもう一度見たいと言っていた雪を僕は見て見たいんだ」  爺ちゃんが話していた事があった。  この村のある大陸は一年中雪で覆われ見渡す限り平らな世界が広がり、白夜の季節でも吐く息は白く凍り服を何枚も重ねないと人も石のように固く凍ってしまう世界だった。しかし、  その雪で覆われた大陸に雨が降った。  雨の日が続いた。  雪の上に出来た川は集まり湖となった。  雪の下に潜った水が幾つも村が入る空洞を作った。  雪で覆われた大陸は一夜にして崩壊した。  大陸を覆い尽くす激流が全てを押し流し海に向かった。  あっと言う間だった。  でも、それからだった。  海面は静かに上がって行った。  昔の世界の人たちが働いたりご飯を食べたり寝ている間に。  海に近い都市は数日で海に沈んだ。平野に広がる作物は数日で海に沈んだ。  生き延びた人々に食べ物はなかった。  海面に広がる雪が融けて出来た真水は蒸発しやすかった。  人類が経験した事がない大型の嵐が毎週のように世界を蹂躙した。  大人は耐えられた。しかし、人の子も動物の子もダメだった。鳥の卵も雛もダメだった。  木々は強風でなぎ倒され、草花は土と一緒に流され、土砂に埋まった。  海の生き物は海面に広がる真水では生きられなかった。  幸い、爺ちゃんたちは運が良かった。  嵐を乗り越え辿り着いたこの大陸の天候は穏やかだったからだ。  爺ちゃんたちには知恵と忍耐があった。  残された物を工夫する事が出来た。明日を信じて続ける事が出来た。  爺ちゃんたちは寛容でもあった。  生存者がいれば飢えを堪えて食べ物を分かち合った。動物とも水を分かち合った。  爺ちゃんが羊の世話の合間に聞かせてくれた話だ。そして、世界が変わる前、雪の降るクリスマスの日に食べたご馳走やケーキが忘れられないと言っていた。 「このスノードームは爺ちゃんの住んでいた村に似ているんだ。僕はね、爺ちゃんと約束したんだ。爺ちゃんの代わりにこの世界を見てくると」   了
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