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実家で半年ゆっくりした。けれど、心の傷は癒えないままだった。
「でも、いい大人がいつまでも親の脛かじってるわけにもいかないから」
それで、地元でもあるこの会社に就職したのだと、美香は言った。
「だから、会社の男の人と仲良くなるの、怖いんだよ」
「僕は大丈夫ですよ。独身だし、現在恋人募集中ですから」
元気付けようと、少しおどけた調子で言う直人に、美香は可笑しそうに笑ってから、
「そこは心配してないよ。ただ、職場の人に、いろいろ言われたりするのがツラくて……」
「えっ、じゃあ、もしかして、僕のことも……?」
美香はそれには答えず、
「案外トラウマになったりするから、杉田くんも気をつけなね」
そう言って、残りのビールを飲み干すと、
「そろそろ、帰ろっか」
と、テーブルの上の伝票を手にした。
会計の時、直人が財布を出すと、美香はそれを手で制し、
「いいよ。聞いてもらったお礼」
笑みを向け、サッと2人分の支払いを済ませた。
その立ち振る舞いも、さっきのビールを呑みながら東京での3年間の話をする姿も、直人には見たことのない美香だった
そこに、自分より3年先に社会で揉まれてきた大人を感じた。
逆に、自分の反応が薄っぺらな気がして、気後れしてしまいそうになりながら、駅への道を並んで歩く。
「ごちそうさまでした。聞くだけで、たいしたこと、言ってあげられなくて」
「いいんだよ。こういう時は、聞いてもらえるだけでいいの」
「……」
「あっ、それから、すごく嬉しかったよ。ティーカップ」
「……?」
「東京に行ってからも、大切にするね」
「えっ……?」
立て続けにいろいろ言われ、理解が追い付かずにいるところに、
「私、会社辞めるの」
「えーっ!?」
思わず声を上げる。駅前を歩く人々の視線が一斉に集まる。
すっかり酔っ払っている直人は、そんなことも気にならず、なおも大きな声で、
「嘘でしょう?」
微かに笑みを浮かべながら、首を振る美香。
「えーっ、なんでですか?僕のせいですか?」
直人が、頭に浮かぶままに質問を連打する。そんな直人を笑って見ながら、
「前の会社の先輩が、一緒に喫茶店やらないかって誘ってくれたの」
「喫茶店?」
「そう。同じ夢を持ってた人でね。その人も、この春、会社を辞めることになったって」
「……」
「退職金を元手に、喫茶店を開くことにしたから、手伝ってほしいって。そうそう、早稲田大学の近くだよ」
「……そうなんですか」
「その先輩は、部署は違ったんだけど、唯一私の理解者でいてくれた人で。もう一度、東京でイチから人生やり直してみようかなって……」
美香は一瞬、本当に夢を見ているような目になってから、
「さ、電車来ちゃうから、帰ろ」
立ち尽くす直人を置いて、さっさと自動改札を入っていってしまった。
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