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直人が目礼すると、彼女の表情が微かに緩んだ気がした。
(ここだったんだ……素敵な店じゃないか)
たった半年間だけれど、一緒に働いた日々の記憶が蘇る。
そして、中華料理店で話をした夜。その後の、駅での別れ。
あの日の切ない思い出が、直人の胸を締め付ける。
「混んできたし、そろそろ出ようか」
紅茶を飲み終えた妻の声が、少し遠くに聞こえた。
店内はいつの間にか満席になっていた。
「そうだな」
妻に笑顔を向け、荷物を持って立ち上がる。
会計を済ませたところで、
「ごめん。ちょっと、お手洗いに行っておくね」
妻が奥へと小走りに入っていった。
そこに、直人たちのテーブルを片づけて戻ってきた美香が通りかかる。
そして、直人がちょうど一人なのを確認すると、小さな声で話しかけてきてくれた。忘れもしない、ソプラノボイス。
「久しぶり。杉田くん」
「久しぶりです。よく分かりましたね、僕だって」
「変わってないもん。それより、杉田くんも、よく分かったね」
「はい。それ……」
と、直人がお盆の上の花柄のティーカップを指差す。美香は小さく頷いて、
「これ、今日初めて使ったんだよ」
「えっ……」
「いつか、杉田くんがこの店に来たら、びっくりさせようと思って。気付いてくれて、よかった……」
「気付かないわけ、ないでしょ……」
カップを愛しげに見て、言葉に詰まる直人に、美香がトイレの方に視線を送り、
「奥さん?」
「はい。同じ会社の同期。大学もここで一緒でした」
と、大学の方向を指差すと、美香は「良かったね」と言ってニッコリ笑った。直人は、店内を見回しながら、
「いいお店ですね」
「でしょ。旦那と一緒に、20年間……」
「えっ?……じゃあ、先輩って?」
「そうだよ。えっ、何?女の人だと思ってた?」
いたずらっぽく笑う美香は、とても幸せそうだ。そこに、
「お待たせー」
「美香、オムライス上がったから、3番テーブルにお願いね!」
妻と、マスターである美香の旦那の声が相次ぐ。
それを潮に、美香が「じゃ」というふうに目礼をしてから、
「ありがとうございました。またのご来店、お待ちしてますね!」
直人と妻に元気な声をかけ、送り出してくれた。
「感じのいいお店だったね。また来ようよ」
外に出た所で、妻がそう言い、振り返って店を見る。その声が弾んでいた。
「そうだな」
満ち足りた気分で、直人は妻と二人、学生街を後にした。
(完)
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