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秋。 新居に越してから1ヶ月。荷物の整理はほとんど終わっているが、蓋を開けずに地下に運ばれた段ボールがまだいくつか残っている。2階のテラスは気に入りの場所で、すぐ目の前の公園で子供たちがサッカーをしているのを眺めながら、コーヒーを飲む休日の昼下がりが好きだった。 今日ははじめてローレンスを招き、ふたりで涼しい秋風にあたりながら、ベンチでひと休みする老夫婦のように公園を眺めている。土曜が非番の彼はラフな出で立ちで、引越し祝いと結婚祝いを手にはるばるここまで会いにきてくれた。だが祝いの品を持っていながら、自身の薬指にも指輪を鈍く光らせている。「それ」とジャレットが指摘すると、「これか」とわざとらしく掲げて笑った。 「外せとは言わないがよく見せてくれ」 「別に外すくらい構わない。…ほら」 そっと手のひらで受け取り、飾りのないシンプルなプラチナの細い輪をまじまじと観察する。裏側には、自分が贈ったあのヤマネコと同じブランド名が刻まれていた。ウエディングリングの代名詞とも言えるものであるが、自分にもなじみのあるブランドなので相場はすぐに察した。だがそのような野暮なことは口には出さず、「いつの間に?」と半笑いで指輪を返した。 「これをもらったのは先月だ。話自体は…6月にはついてたけど」 「いちばんの友に黙ってたな」 「いろいろと忙しそうだったから、時機を逃していただけさ」 「結婚する気はないと言ってたくせに」 「そのつもりだったが…まあ、彼の情熱にほだされたってことだ。このありきたりな指輪といい、彼は形式にこだわる節がある」 「へえ、君が折れたってことか…。名前は?」 「書類上では変わったが職場では旧姓のままだ。指輪もつけてない。ニコルソンのように干渉されたくないからな」 「じゃローレンス看守長のままか」 「そう」 「僕もフォックス先生のままさ。指輪も勤務中はつい外してしまう。後ろめたいわけじゃないが、何となく」 「どこも同じだ。けど指輪の値段は同じとは思えないな。僕のには無い石が埋め込まれてる」 「別に大した違いじゃない。…って言ったら先生に失礼だけど」 「幸せにな」 「お互いにね」 「それにしても、まさか同じような時期にこうなるとは」 「どっちが長く続くか見ものだ」 「ははは、そうだな」 まもなくザックが戻るので、ジャレットは彼に電話をかけ、祝いの人物がもうひとりいることを告げた。彼はそれを聞くなり、自宅でのディナーを取りやめて急きょ土曜夜のいつものレストランを予約し、その夜にローレンスの夫も合流すると、4人でささやかな結婚祝いをした。 ジェイクは春学期を終えたら英国へ渡ることが正式に決定され、予定どおりにヒースのバックアップのもと、本格的に服飾を学ぶこととなった。彼は現在ほとんど毎日ヒースの家にいるようで、大学卒業までの期間は、師弟ではなく恋人としての時間を愉しんでいるらしい。 夏に彼らとの晩餐で、自身の結婚をジェイクに告げた際、一瞬だけ何かを言いたげにヒースのことを見たときの眼差しが、あまりにも切なげでいじらしかった。兄が初めて心から愛する他人は、この無垢な青年であってほしいとジャレットは願っている。彼はローレンスのように生意気でも、あの男ほどの図太さはない。いつもきちんと愛を示してやらねば、病気のうさぎのように物言わぬまま弱ってしまいそうだ。 アーミーも卒業後にはインターン先のオフィスに雇い入れられることとなったようで、今もときどき顔を合わせれば、あのダイナーでランチを共にする。ふたりのあいだはもう疚しさなど無いと思ってはいるが、彼にはまだザックとのことは話しておらず、ジェイクにもまだ秘密にしておいてほしいと伝えてある。そもそも彼に話す必要があるかは分からないのだが、いっときの気の迷いとは言え、深く心身に刻まれた彼の熱は忘れられない。 真摯に愛を与えようとしてくれた彼には、現状について何をどう伝えるべきなのか、その答えはまだ得られていないのだ。 ジェイク同様、ひとつ身勝手なことを願うなら、彼には彼の兄や父母のようにいつまでも仲睦まじく、みんなで賑やかに食卓を取り囲むしあわせな家庭を築いてほしい。どこに行けども人々の視線を独り占めする色男の彼だが、危険な相手との爛れた関係や火遊びなんかより、彼にはごく平凡で幸福な愛に溢れた暮らしが向いている。 これはきっと、ヒースが自分に抱いたのとまったく同じ願望であろう。大切な人だから、安心できる相手と共に幸せになってほしいのだ。ほとんど親心に近い感情であるし、実際どこか抜けていて頼りない彼には、つい母親のように世話を焼きたくなってしまうこともあった。 今は慣れない結婚指輪よりも毒ヘビのカフスを身につける頻度の方が高く、日曜にはリックに紹介された爬虫類の展示会場に足を運び、たまにネットでヘビの飼い方や近場のブリーダーを調べたりもしている。その様子を見たザックには「蛇を飼うなら別館を増築してからにしてくれ」と苦言を呈されてはいるが、なぜだか毒ヘビにまでいやに愛着が湧き始めているのだ。いずれ本当に研究に着手しようかとも考えたが、そんなことをしたら、ザックはいよいよ別館どころか「どこかのラボを借りてやってくれ」と言い出しそうだ。 ザックのふたりの娘は、まだこの家に来ていない。それでも彼は日曜日に気に入りの香水をつけ、これまでと変わらず彼女たちに休日を費やしており、ジャレットは日曜日だけ気兼ねないひとりきりの時間を過ごすのだ。きちんと話をして少しずつ理解を得られているとはいうが、やはり父親が再婚者と、それも同じ男と暮らす家に、年頃の彼女らが気易くはやってこられないであろう。いつか彼女たちともここで食卓を囲むことができればいいのだが、自分の願望を振りかざすことはせず、父親である彼の再婚者として静観し、今は彼女たちの健全な成長を陰ながら見守るばかりである。 養子として迎え入れてもらい、実子と変わらぬ愛情を受け育ってきた自分には、昔から血の繋がりなどはさしたる問題ではなく、手にした縁の内にいる者すべてが親戚のような感覚であった。ローレンスはもはや兄弟同然だし、今やジェイクも弟のようなものだ。戸籍上の兄弟はひとりだが、自分にはたくさんの魂の兄弟がいるように思えてくる。 「違う愛し方」を見出すのは、世界中でただひとり。夜光の瞳で睨みつけるヤマネコ、あるいは草むらから野ネズミを狙う毒ヘビのようでもあり、しかしそのどちらよりもずっと正確な天賦の観察眼を有する、皮肉屋でくたびれていて家庭不和による離婚歴アリの中年男。 "理想的な不倫関係"を終え、今や彼は正しき伴侶となった。
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