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Ⅵ
「博士のチェックをパスした瞬間、肩から力が抜けるよ。彼は決してきつい言葉も使わないどころか、いつだって一貫して冷静沈着で紳士的だ。だが今まで出会ったどんな監督よりも厳しい目を持っている。相当に熟練した、あるいは鬼才と呼ばれるような人たちの誰よりもね。役になりきるということは、その感情までぬかりなく体現することだ。自然で素直な気持ちで演じるということの難しさを、今になって改めて学んでいるような気さえするよ」
水曜日。ザックは彼自身をモデルとし、なおかつ彼が監修を手がけている一話完結型のドラマ「UNMASKED」の取材を受けており、撮影は主演俳優のサイモン・ロスとそのパートナー役のマーゴット・ウイリアムズとの対談形式で進められていた。ザックと面したサイモンたちの笑顔からようやく固さが消えたのは、彼らが長い撮影期間を通して、ザックという「嘘の通じない男」に慣れてきたからである。すなわち俳優たちが抱いていた彼への警戒心によって、両者のあいだに張られていた見えないフィルターはすっかり取っ払われたのだ。おかげで現場はリラックスした良好な雰囲気に包まれていた。サイモンの言葉を受けて、ザックが語る。
「はじめは……サイモンと私には少し険悪な空気もありました。彼は演者としては申し分のない実力とキャリアを持った人物で、私も彼の出演作は好んでいくつも観てきました。無論この宝石のようなマーゴットも憧れの女優のひとりです。そんな彼らに、演技などまるでわからない私が"そうじゃなくて、こう演じなさい"と、本来なら完璧である彼らの演技に指示を出すんですよ。そりゃあ良からぬ空気になるのも当然で、とにかく互いに胃の痛くなるような苦しい撮影期間でした」
「そのとおり。無事に1シーズン終えられるのかと、僕らだけでなく周りのスタッフたちだってハラハラしどおしだったはずだ。博士は少しのミスも許さない徹底っぷりだし、どれだけ緊迫した場面でも平然とストップをかけて演技指導をする。博士の顔に何度ため息を吹きかけたか数え切れない。だがそのうちに僕は徐々に気がついていったんだ。これまでの自分が、スクリーンの中でいかに内面の動きとかけ離れた筋肉の動きをしていたのかってね」
サイモンが言うと、ザックとマーゴットが笑った。
「たしかに笑えるだろうが、それに気づいたとき、僕の中に蓄えられていたものが崩れ落ち、がらりと真新しい街並みに作り変えられたような気分だった。本当さ。この経験は他作品にも確実に影響している。これまでよりずっと脳内から肉体への伝播と、それによる表現が滑らかになったんだ」
「オスカーも夢じゃないわね。」
マーゴットが微笑み、サイモンが肩をすくめて含みを持った笑みを浮かべた。ともに人気俳優であり、スケジュールも分刻みの忙しい日々を送るせいか、表情には多少の疲れも見える。だがふたりの笑顔に翳りはない。ザックはこうして穏やかに対談をできるようになる日が訪れたことを、彼なりに喜んでいた。
自分の仕事を他人に理解してもらうことの難しさを、彼もまたこの撮影を介して痛感していた。無意識の仕草や息遣い、瞳や指先のわずかな動き、浮かび上がったり、あるいは消失するシワの1本。人の心理はそれらすべてが連動してつながった先に見えるため、変化を少しも見落としてはならないし、誤った判断も自身の仕事と同様に決して許されない。だからサイモンたちの「再現」も完璧でなくてはならなかった。国内外で視聴する数千万の人々に間違った知識を与えてはならないのだ。自分の中の蓄積をサイモンにイチから学ばせ託すことで、自身の生業の複雑さをザックは改めて思い知った。すなわちこのドラマ撮影は、互いに良い経験となったということである。
話題が、作中の恋愛話に切り替わる。サイモン演じる「ロビー」と、マーゴット演じる「カレン」は、博士と助手という関係でありながら、あらゆる困難を切り抜けていくうちに互いに惹かれあい思いを募らせていく、という設定がある。インタビュアーが、まずはサイモンとマーゴットのプライベートでの接点について触れ、実際には互いをどう思っているのかと問い、それぞれの恋愛観についての質問をした。ふたりの回答は人気役者として、そしてこの番組のファンに向けたものとして、実に気が利いて優れたもののようにザックには感じられた。
ロビーとカレンの関係は脚本家の創作したものではあるが、それとなくザックとジャレットに重なるものがあり、バッドエンドや後味の悪い内容が多いこのドラマの中で、はたして彼らにハッピーエンドが訪れるのかどうか、ザックはひそやかに気になっていた。ふたりの行く末は彼自身もまだ知らされてはいない。彼はあくまでも事件などの監修と演技指導であり、キャラクターのエピソードやストーリーの製作・進行にはノータッチなのだ。
ドラマの中で主人公のロビーは妻と別居しているが、ひとり息子とは頻繁に顔を合わせ、親子仲は良好かつ気ままなシングルライフを楽しんでいる自由の身であった。対して助手のカレンは研究職でのキャリアを積み、才色兼備であらゆる人々から憧れられるものの、なぜだかやたらと損な役回りに立つことが多いせいか恋愛に失敗しやすく、しばらく色事から距離を置いている妙齢の学者という設定であった。
ロビーという男のモデルはザックであるが、脚本家には彼のプライベートの像は一切求められておらず、家庭のことも当然話してはいない。それなのにロビーとザックの環境はよく似ているから、やはりこの特殊な仕事に身を置く男の像に平凡な幸せというのはかけ離れており、想像し難いことなのかもしれない。
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