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いつもの待ち合わせ場所。まっしろな息を吐き、「先生」と片手を上げる。 「すまない、寒かったろう」 ザックが小走りで駆け寄ってくる。ジャレットは少しだけ鼻先を赤くしながら「いえ」と笑った。去年の誕生日に贈ったマフラーに顔を半分うずめ、左手にもやはりザックのプレゼントした腕時計を巻いている。 「今すぐ私の胸に飛び込みたいと思っているな」 会うなり指摘され、ジャレットは困惑しつつ照れ笑いを浮かべた。するとザックの方からジャレットを抱きしめ、「都会は寛容だ。我々が白昼堂々キスをしたとしても撃ち殺されたりしない」とわざとらしくあらたまった口調で言った。 「……先生、香水変えました?」 「ああ、娘たちからもらったんだ。ゴミ溜めの中に咲く大輪の花のような香りだろう」 「いい匂い」 「私も気に入ってるよ」 ジャレットの頬にキスをして、「行こう」と歩き出す。こうして会うのが、土曜夜のふたりの楽しみだ。金曜日はザックの依頼が長引いたり立て込むことが多い。ジャレットは「兄」との週末のディナーに付き合わされるのが習慣となっている。 「お誕生日おめでとうございます」 行きつけのレストラン。なじみのウエイターが何かを隠している顔をしていたので、ザックはとうに勘付いていた。おかげでサプライズにはならなかったが、祝いのシャンパンを注がれ乾杯をした。 ひと口飲んでから、ジャレットは黒い手のひらサイズの小箱を差し出した。ザックは初対面のウエイターは見抜けたのに、彼が何かを隠していることにはとんと気づかなかったので、少し驚いた。 そして「私も大昔にこんな箱を妻に贈ったことがある」と皮肉のように言いながら、そっと小箱を開けた。中を見て、重いまぶたが少しだけ上がる。 「……なんて美しいんだ。驚いたな。私がこれを欲しがっていたのを、いつの間に知ったんだい?」 中には金色のカフリンクスが入っていた。立体的なヤマネコのような獣が、瞳を輝かせながらじっと正面を見据えている。まるで獲物をとらえたかのような表情だ。 「欲しがってたんですか?知りませんでした。ここのお店でプレゼントを探してて、妙にコレが目に付いたものですから」 「きっと以心伝心というやつだ。だが……本当にいいのかい、こんな高価なもの」 箱に刻まれた金箔のロゴを見たときから少し圧倒されたが、イエローゴールドのヤマネコとラピスラズリのような瞳を見て、ザックの頭にはまずおおよその価格が浮かんだ。この指先ほどの小さなヤマネコ2頭だけで、おそらく自分の平均的な月収を優に超えている。 「だってすごくいい時計をいただきましたし。……これくらいは」 フォックス兄弟の経済事情など把握していないが、ごく普通に教職に就いている弟のジャレットまで、とても一般の教員では手の出せないものをポンと買える。兄はよほど弟がのだ。だから彼の身にまとうもの全ては、いつだって華やかで洗練されている。車も同様だ。だから彼に贈る時計も相当奮発した。 「ありがとう。……荘厳な顔をした獣だ。喰い殺されないように気をつけよう」 ヤマネコと見つめ合い、ザックはそれをそっと小箱に戻した。おいそれとは使えないが、ジャレットは「指輪と思って、毎日つけて下さいね。」と無邪気に笑った。 ふたりの土曜夜の関係は、だらだらと丸2年が経とうとしている。家族と別居中のザックはまだ離婚をしておらず、下の娘が高校に上がるまでは夫婦のあいだの「答え」を出せそうにない。かと言ってそれまで律儀に独り身をつらぬくこともない。互いに恋人を作ろうが、再婚を視野に入れた付き合いを持とうが、この現状において妻とうるさく干渉し合う必要はないのだ。彼女に新たなパートナーが見つかればすっぱり別れられる。しかし今はその兆候も見えず、互いに何とも微妙な関係が続いている。 夫婦関係の着地点は見いだせていないが、ジャレットとの関係はクリアに見通しているつもりだ。それは「理想的な不倫関係」である。 ザックはジャレットにいずれ真のパートナーが見つかることを望んでいた。 ごく普通の結婚をして、子供をもうけてほしいと思っている。もしも同性を選ぶなら、自分のようにいよいよ枯れ木に差しかかった男でなく、若く健康で未来のある男であってほしい。 兄がバイセクシャルだというから、弟が同性婚をしても兄にとってはさほど問題はないだろう。ジャレットはもう立派な大人だから、彼の人生は彼の決断にゆだねるべきである。 いつか「好きな人ができた」と告白されたのなら、自分はすぐに身を引き、彼の新たな幸せを願う。自分たちは、そういう関係でいいと思っている。 ザックはこの2年の中で、そのことをジャレットに何度か伝えている。ジャレットは「はいはい、わかってます」と深く考えず適当に返事をするが、妻と同様にこの青年にもまだ他の人間の影はない。結婚も子供も、今は特に何のプランも持っていないそうだ。 親のように将来についてうるさく言うつもりはない。だがザックはジャレットの現状についてひそやかに心配していた。彼の貴重な時間を吸い取る存在にはなりたくない。 若さは輝きだ。このヤマネコの瞳よりもずっと青く華やかにきらめいている。そしてこの瞳の粒と同じくらい、ほんのわずかで儚いものなのだ。だがそれも今この歳になってわかることだから、ジャレットはまだよくわかっていないだろう。かと言ってもう無自覚にいられるほどの若さでもない。自分が彼の年齢のころには、妻は上の娘を身ごもっていたのだ。 ほどよく酔いがまわったところで、ウエイターに見送られて店を後にした。街灯が点々と並ぶ枯れ木の並木道で、ジャレットはザックの右腕に腕を絡めた。 この関係はだが、身近な人物ではあのウエイター以外の誰にも気づかれてはならない。最も悟られてはならぬのが彼の兄、ヒースだ。ただでさえ性格が合わなくて嫌われているのに、さらに厄介なことにヒースは弟を溺愛している。何かにつけて自宅に呼び出しては家政婦のように身の回りの世話をさせ、自身は服のデザイナーとスタイリストであるにもかかわらず、翌日に着ていくシャツやネクタイの色はいつもジャレットに選ばせる。 まじめに働くのがバカらしく思えるほどの小遣いや高級車も無理やり買い与え、自社の新作も強制的にジャレットに纏わせる。さらに長期で遠方に行っているあいだはほぼ毎晩モニター越しの通話を要求し、目ざとい男なのでそのときにジャレットが見慣れぬ服を着ていれば、「その服はどうしたんだ」といちいち尋ねてくる始末だ。 はっきり言って彼は病気だ。だがジャレットに「お兄さんの君への執着は病質的だ」と伝えたら、「わかってますけど、昔からこうですから慣れました。」とあっけらかんと返されただけであった。 弟離れのできない兄こそ、ザックのもっとも心配するタネでもあった。ヒースがいる限り彼はまともに恋人も作れないだろう。ヒースは結婚には縁遠い性質だから、このまま身を固めることもなく、墓に入るまで自分本位な恋愛ばかりするはずだ。家族とはいえ、この先もそんな男に付き従わされているようではあまりにも気の毒でならない。願わくはジャレットに恋人ができたなら、そこで兄の弟に対する興味が一切途絶えてほしい。今のジャレットはまるでヒースの着せ替え人形である。
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