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Ⅴ
午後6時。バンドを組んでいる大学の友人に招待され、ジェイクは地下のライブハウスで余興のような電子音の波の中にひとり佇んでいた。暗くて煙たくて甘ったるくて、開放的だが閉鎖的で、猿に戻った人々は幸福そうで排他的だ。ほんとは誰しも世界のことなんかどうでもよくて、まやかしの絶頂に浸っていればそれで良くて、人と人の終着点は同じなのに、自分の夜だけは特別だと信じて疑わない。
退屈は嫌いなのに、ぼんやりと空っぽの日曜を過ごしている。音楽も美術もスポーツも、宇宙も見知らぬ土地も生命体も、死ぬまでにすべてを見ることは決してない。けれどもしも全部知れたとしたって、人間の脳から退屈は抜き取れない。最期に残るのは、不自由な身体と忌々しい記憶と輝かしい思い出、そしてそれを上回る退屈であろう。
群衆の最後列のそのさらに後ろ。トイレの前の壁にもたれて、ジェイクはそのままずるずるとへたり込むようにうずくまった。音にも熱狂にも関係なく、時空すら飛び越えて、意識はある日の静かなオフィスの中に浮遊する。
感性を言葉では伝えられないからと、重要な部分は職人に任せず、わざわざ忙しい彼自らの手で緻密に紡いでいく美しい刺繍。縫製によって計算し尽くされた絹のいたずらなたゆたい。彼の指の動きと、深くととのえられた爪。あの手を見ていると、心臓をじかに触られているような気分になる。
好きとは言ったが、きっと嫌いなところの方が多い。彼の指先を見つめていたいとは思うけれど、最愛の弟にすら愛想を尽かされた彼の欠落部分に振り回されていたくはない。まるで病床で身体が弱るごとにどんどん頑固になっていった祖父のようだ。……彼はすでに退院して今や何事もなかったかのようにピンピンとしているが、病院のベッドの上で母に対してあまりにも自分本位にふるまう彼に「いい加減にしろ、くたばり損ないが」と口走ったときの気持ちは、ヒースと面と向かっていると何遍もよみがえる。
けれど、あの指先と、あの眼差し。スケッチブック1冊で飛び込んだ華やかな世界に、彼は独特の光を放ちながら眼の前に燦然と現れた。都会のアパレルショップでアルバイトをしていても、あれほどに洗練された店員や客を見たことはない。みんなと同じ量販店の服をまとっていても、まるでそれが彼だけのために誂えられた一級品のように見える。彼は表舞台に立つ人間ではないのに、あらゆる有名モデルを使っても、彼がブランドのいちばんの手本なのは間違いない。撮影のために自作のスーツをまとっているときの彼は、腰から力が抜けていきそうなほどの色香に満ち溢れている。
だから、性格が破綻していて良かったとも思う。あれでアーミーのように穏やかで朴訥なつまらない性格なら、彼はとっくにだれかの所有物にされていたはずだ。だが病床の祖父のように自己中心的で腹が立つから、みんなも自分も、のぼせあがらないで済んでいるのだ。
恋は退屈しない。恋に落ちる瞬間だけは人生でもっとも刺激的だと思う。叶わずに終わることは悲しいのかもしれないけれど、片思いの愉しさを長く味わえることは、ある意味では生きる糧であり喜びだ。
きっとたくさんの人が彼に片思いをしている。自分もその束の1本に過ぎないが、空っぽの日曜日に彼のことを考えるのは、悔しいけれど悪くはない。昨夜の告白は「お前のような小僧に好かれても嬉しくない」とはねつけられたが、「僕だってあなたのような根性曲がりに好かれたくない」と返して笑いあえる今の関係が、自分には楽しいしちょうどいい。
恋は突然やって来る。いっぺんに何度もやって来ることもあるし、こうして長らく音沙汰のないこともある。今夜の音楽などはもう雑音でしかない。ここには居ない彼の声ばかりが脳を介して左右の耳を廻っている。まぶたを閉じると、キツネのような陰険な眼差しに射抜かれる。……彼のことは嫌いだが、自分は確かに、彼に恋をしているのだ。
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