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午後8時。遠方に住む親戚が訪れたため、アーミーの一家は揃って近くのレストランに赴き、1時間ほど前から賑やかな晩餐を楽しんでいた。だがアーミーだけはどこか上の空で、気を抜けば窓の外をぼーっと眺めている。今夜は久々に帰ってきた兄とその婚約者も同席しており、話題は親戚の観光と兄の結婚についてのことばかりだ。おかげでアーミーのには誰も気がつかなかった。 「ちょっとトイレ」 ひとり席を立ち、そろそろ家に帰りたいと思いつつ腕時計を見るが、まだ1時間も経っていない。あの調子ではしばらく話が尽きなさそうだとため息をついた。 トイレには先客があり、ひとつ飛ばして右側の小便器に並ぶ。ファスナーをおろして用を足し始めると、「おや、あなた」と突然左側の男に声をかけられた。 「失礼ですが、昨日サン・ノウルズ刑務所にいらっしゃいませんでしたか?」 「え?……あ、ああ、いましたけど……」 放尿しながら男の顔をまじまじと眺める。看守だろうかと思ったが、まったく見覚えがない。だがさらによく見ると、何となくどこかで見たような気もしてきた。昨日見ていないことは確かだが、いったいいつどこで? 「あの、あなたは……」 「失礼。いま名刺をお渡ししますよ。もちろん念入りに手を洗ってからね」 そう言うと男は一足先に用を足し終えてレバーを引き、後ろの洗面器で手を洗った。アーミーもそれに続くと、男は「石鹸まで使いました」と言いながら手を拭き、鏡の前で名刺を差し出した。 「ザック・ウォルツさん……?」 印刷された肩書きを読み、その名を反芻する。すると数秒ほどで、アーミーが驚いた顔をして「……ああ!」と目の前の男の顔をもう一度まじまじと見た。 「僕、あなたのドラマ観てますよ!」 「それは光栄です。俳優でもないのにずいぶん知名度を上げたものだ」 「まさかこんなところで……感激です」 アーミーが両手を差し出し、用を足し終えたばかりの男たちは熱い握手を交わした。 「……ところで、昨日お会いしましたっけ?」 ザックはあの映像のことを言おうか迷ったが、さんざん笑いものにしたせいで少し気が引けたので伏せておくことにした。 「ああ、仕事でしょっちゅうあの刑務所に赴くのでね。あなたが看守長といるところを、窓からチラリと」 「そうだったんですか。よく覚えていらっしゃいましたね。あの、僕は悪さをしてあそこにいたんじゃありませんからね」 「分かっていますよ。あなたは見るからに善良で純粋で毒気のない顔立ちをしている。悪人であれば、どんなに善玉ぶっていようと私にはたやすく見抜けますからね。昨日はとても孤独で不安げな表情をしていたのが窓越しでもよく伝わりました。大方あのあたりで事故に巻き込まれでもして、刑務官たちに保護されたのでしょう」 ザックの「得意技」を目の当たりにしたアーミーは、とたんにきらきらとした眼差しで嬉しそうな笑みを浮かべた。ザックはその無垢な笑顔に少しだけ良心を痛ませた。 「そうなんです、あの近くのカフェで友達とケンカをして、バイクで置いてかれちゃって……」 「そうでしたか。それはお気の毒に」 「看守のみなさんが優しい人たちで助かりました」 「一般市民にまで厳しく接したりはしませんよ。看守長を除いてはね」 「ああ、ローレンス看守長ですね。確かに少し怖そうな人でしたけど……実は彼が僕の大学の先生と友人だったんです。だから先生に連絡してくれて……彼には本当に助けられました」 すべて昨夜のうちにジャレットから聞いたことであるが、ザックは初めて聞いたかのように装った。そしてそれを語るアーミーのささやかな表情の変化をひとつも見落としはしなかった。 「あなたがご無事であったことが何よりです。その後お友達とは?」 「それがなんにも。まあ悪いことをしたとは思っていないでしょうから、多分いずれ、何でもなかったかのように連絡がくるはずです。そういう奴なんです」 「なるほど。深い絆で結ばれているようだ」 「とんでもない、腐れ縁です」 「はは、そうとも言えますな。しかし、大学の先生とローレンスさんがお友達であったとはね。あなたと私がこんなところで鉢合わせたことも含め、やはり世間は狭い」 「ええ、本当に」 「あなたは先生をずいぶん尊敬してらっしゃるようだ」 「先生を……?ええ、もちろん。まだお若い方ですが、手本にしたいと思える方です。……それもお分かりになるのですか?」 「"先生"と発するときのあなたの表情は親愛に満ちています」 「親愛……」 「対象者がこの場にいなくとも、その人の像を思い起こしたときの心情は表情にもきちんと表れる。誰かの陰口を言っている人の表情をご覧になればよくわかるでしょう。あるいは親しいフリをしているだけの人もそうだ。どれだけ表情を繕って口で褒めそやしていても、ふとしたところにボロが出ます。口角の軽微なかたよりや、眉間のささやかな上下運動にね」 「……すごいや、ドラマで見たとおりだ。うらやましい能力だ」 「一長一短ですよ。嘘なんて、気がつかないままでいた方が幸せに生きられるのかもしれません」 優しげに笑うが、本人がいちばん読めない顔をしている人だとアーミーは思った。 「こんなところで長々とすみませんね。またどこかでお会いしたら、コーヒーでもご一緒しましょう」 「お会いできて本当に嬉しいです。ぜひ今度はゆっくりお話をしてみたいです」 ようやくトイレから出ると、それぞれの席へ戻っていく。アーミーが席に着くなり「遅かったわね」と母親に言われたが、ザックと会ったことは明かさないでおいた。家族全員であのドラマを欠かさず観ているため、色めき立って余計に話が長引くのを避けたかったのだ。 ジャレットへの「親愛」の表情。思い起こすだけでそれが漏れ出ていたというのなら、自分はきっと、これまでずっとその顔を無意識に彼に向けていたのだろう。 昨夜のことを思い起こしてまたぼんやりと窓外を眺めていたら、兄の婚約者に「そろそろおねむの時間かしら?」とからかわれ、兄が腕時計を見ると「おっといかん、もう8時半を過ぎてる。いつもならベッドに入っている時間だな」と畳み掛けるように言われ、皆に笑われた。
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