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Ⅱ
年に1度、春に開催される世界最大規模のファッションのソーシャルイベントに向け、ヒースの忙しさも佳境に入ってきた。だがビジネスの場以外ではくたびれた顔もせずに悠然と構え、いつも涼やかな様子で過ごしている。ショーなど仕事のほんの片手間に過ぎない、といった余裕を見せつけているのだ。
「よかったね、今年は出展できて。兄さんのこともこんなに大きく載ってる」
3ヶ月後に迫るショーの詳細を伝える記事を読みながら、ジャレットが言った。
「俺が頼み込んだわけじゃない。あのヒステリック女の方から、以前のことは水に流してほしいと再三にわたってしつこく詫びを入れてきたんだ。だから折れて仕方なく協力してやるまでだ。ただでさえ来季の準備でクソ忙しい最中にな。去年はショーが無かったおかげで自分の仕事にもあれだけ集中できたから、できれば今からでも断ってやりたいくらいだ」
フンと鼻を鳴らし、ヒースは少し得意げに文句をたれた。業界の権威として名高い、このショーの主催者である大手ファッション誌編集長のベラ・ハワードと、おととしにとあるイベントでの小さな諍いがキッカケでそのまま大ゲンカに発展したため、去年は彼女からショーへの「参加禁止令」を下されていたのだ。ヒースのドレスはデザインはもとより、毎年話題のモデルが着用することが多くそれも含めて注目されていたために、この不名誉な禁止令はまたたく間に業界に広がり、テレビのニュースでも取りざたされた。
「ベラには、俺が被った風評被害までは水に流してやらんと言ってやった。だから詫びとして、このショーでは俺のドレスを3着使わせる約束だ。2着以上というのは異例だが、俺と仲直りできるのなら呑むと言った」
「文句を言いつつ、ものすごくやる気じゃないか」
「やる気なもんか。今後の出方次第ではいつだって不参加を表明してやっていい。縁を切られて困るのはベラの方だとわからせてやる」
「もう少しソフトに接してやれよ」
「甘いな。この業界は使うモデルも含めナメられたら終わりだ。赤ん坊より気まぐれでワガママなのばっかりだからな。弱腰でいると際限なくつけ上がるぞ。許されるならベラには平手打ちの1発でもかましてやりたいところだ。ついでにあの生意気な尖った鼻をつまんで、形が変わるまで思いっきりねじって引っ張り上げてやる。そしたらあとはキレイさっぱり忘れてやってもいい」
「絶対にやめてくれよ」
ジャレットが顔を曇らせ、読んでいた新聞をテーブルに置いた。
「……するわけないだろ。できるんならとっくにやってるさ」
「謝ってくれたんだから、もうとっくにおしまいだよ。だいたい兄さんも人に対してアタリが強すぎるんだ。もう少し優しさを持たなくちゃ。……次のショーのテーマに背くような考えは捨てるんだ」
今年のイベントのメインテーマは、この国で元来から信仰されている宗教である。それにまつわるアートやあらゆるスタイルから着想を得たデザインであることが、今回の出展の要件だ。
「まるで俺に慈悲の心がカケラもないかのような口ぶりだ。世界でいちばん深く愛しているはずのお前に、そんな悲しいことを言われるとはな。お前への加護を祈らなかった日など1日たりともないというのに」
「僕だってそうさ。けど僕への愛をほんのわずかでもいいからよそに向けてくれ。兄さんの信仰心は僕ひとりでは手に余るよ」
「お前まで生意気なことを言うな。誰がここまでお前の面倒を見てやったと思ってる」
「父さんと母さん」
ジャレットがうんざりした顔でリビングを出て行くと、「待て、どこへ行く」とヒースが慌てて呼び止めた。
「どこでもいいだろ」
「恋人のところか」
「違うよ。そんな人いない」
「隠したって無駄だ、俺にはとっくにわかってる。お前が怒るから探らないでやってるだけだぜ。うちに連れてこいよ、この俺と一緒に食事でもどうだとな」
「恋人がいたととしても兄さんになんか会わせない」
「何だって?」
「……今はショーに集中して。じゃ」
「ジャレット」
呼び止めるが、彼はそのままコートを羽織るとすぐに玄関を出て行ってしまった。取り残されたヒースはテラスに出て、門から去っていく真っ白なクアトロポルテを黙って見届けた。このまま尾行してやりたいが、それをやると弟はいよいよ本格的に怒るだろう。昔はどれだけ撥ねつけようともしつこくあとをくっつき回ってきたくせに、今や自分に対して背中を向けてばかりだ。面白くない。
だが自分も彼もとうに大人であり、いつまでも子供のように干渉し合うべきでないことくらいはヒースにもわかっている。それでも放っておけないのだ。ジャレットがいそいそと会いに行く、名前も顔も知らぬ人物。せめてまともな恋人であってほしい。
弟はいつも穏やかで明るいが、繊細で傷つきやすいところがある。兄の自分とは似ていないどころか、正反対とも言える性質だ。子供のころ、転んでベソをかきながらでもあとをついてくるジャレットにいじらしさを感じてしまった瞬間、自分は兄としてこの弱い弟を守らなくてはならないと多少は思うようになった。
それまでは他人のように思っていたが、ヒザから血を流し涙を流しているのに、やっと立ち止まって振り返った自分に嬉しそうに駆け寄ってきたのを見て、自分の中にようやく兄という自覚が芽生えたように感じた。
それでも優しく接するようになったのは、もっと後のことだ。兄としての自覚はあれど、子供時代は今よりひねくれて性悪だったので、弟を冷たく突き放し続けた。
だがある時からヒースはか弱きジャレットのことをいちばんに考えるようになり、今に至るまで彼を支え、守り、導きながら生きてきたつもりだ。弟のことは世界でいちばんかわいい存在だと思っている。そのかわいい弟には、この先どんな不幸も苦労も降りかかってほしくない。
だが、気の長いジャレットをときどきイラ立たせるのが唯一兄だけであるということを、ヒース本人はまったく自覚していなかった。
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