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代々木駅で地下鉄を降りると、日本代表のユニフォームを着た若い男女の集団が私の前を通過した。その奥に伸びる代々木公園では欅並木に沿ってブルーのイルミネーションがてらてらと照っていて、こちらもまた浮き足だった若者たちがたくさん集まってエモーショナルを演出している。
クリスマスのイルミネーションと日本代表のブルーのユニフォームが、全然違うのに重なって見えて可笑しかった。上司のつまらない冗談のようで笑えた。
冷たくなった手をポケットの中でもぞもぞと動かしながら、たくさんの人が歩いていく先を想像する。あのカップルは青の洞窟でツーショットの写真を撮りながら、人目につかないところでキスをしようとする。あの若い男女はワールドカップを観ながらお酒を飲んで、酔ったことを免罪符にお互いの性欲に裸で触れ合う。あの夫婦はイルミネーションを見たあとで美味しいフレンチのレストランを予約していて、結婚前に何度も訪れた道玄坂に行って久しぶりに性の六時間を謳歌する。
「待たせた?」
人の流れに乗りながら改札から出てきたナベシマは、こちらに気がついて手を挙げた。私も簡単に手を上げて彼の方に振ると、改めて冷たい空気が肌をひりひりと覆いつくした。
「全然、ぴったりだよ」
私は平静を装って言う。
「お仕事お疲れ様」
ナベシマはサッカー選手というよりは、売り出し中の若手俳優とか、メディア露出よりも一回一回のライブを大切にしようと夢見るバンドのボーカルみたいな容姿をしている。筋肉隆々というよりは細くて足や腕がすらりとした体型をしているが、頬に触れたくなるような美しさの顔をしている。同じ勝負の世界でも、サッカー選手と違って、点数で価値が決められないような、なんだかそういう世界で生きていそう。
「渋谷よりは人が少ないかなと思ったけど、やっぱりこっちも人多いね」
信号待ちだった人並みが一斉に動き出したからかもしれないが、私の体はぼうっと温かくなった。
ナベシマの横に並びながら新宿方面へ、できる限り人が落ち着いているほうを選びながら進む。往来する多くの人が自分たちの世界に浸っていて、それぞれがとても遠く離れたところにいるかのように心理的な距離を保ちながら東京の夜は更ける。カップルのように見える男女に、夫婦のように見える男女。友人同士のように見える若者たちに、会社の同僚らしく見えるスーツ姿の男たち。
私とナベシマが隣で並んで歩いていることが、何も不思議でないように受け入れられている夜。
距離としては新宿からでも東京タワーは十分見えると思うが、所狭しと並んでいる背の高いビルが次々と私の視界を遮っている。その窮屈さもまた冬らしく感じられて、私は側から見ても上機嫌であるに違いない。私の歩みは目的地に向かって、僅かに早くなっている。
もう一度信号を待つ間にナベシマは私の手を握った。ナベシマは細くて長い指をしているが、手のひらはあまり温かくない。温かくはないのに、握ったその手を放すには惜しいと思わせるものはなんなのだろう。
歩くたびに擦れる手のひらを伝って、私のお腹の下の方がきゅっと摘まれたように収縮した。ナベシマからはきりっとした柑橘類の香水の香りがしたが、それが厭らしくなくむしろ上質な夜にマッチしている。この香りは私が彼に求めたものではないが、彼から他の女を感じさせない潔癖さを演出するのに非常に的確だった。
ナベシマに会うのは今日で三回目になるが、いずれもナベシマの働く風俗店を介して支払われるお金の対価として、私の性的欲求を満たしてもらうことが目的だった。彼の働く風俗店のホームページを進んでいくとその店に勤務しているたくさんのセラピストの名前が並んでいて、私は彼らのうちの誰かを指名して予約することも、指名せずに時間と場所のみで予約することもできた。ナベシマと初めて会った夜は愛や二人の将来について語ることもなく、一二○分をかけてお互いの背中や腹や性器を触り合った。非常に近い距離だったのに、明確な線が引かれているような関係はとても心地よかった。
長く付き合ってきた裕之からすれば私は酷い女なのだと思われるのは想像できるが、彼だって会社の同僚や友人たちと一緒にお金を払って女の人にお酒を飲ませることもするだろうし、風俗ともキャバクラとも知れない派手な女に好意を持った目や語り口で近づかれれば気持ちが浮つくこともあるだろう。
それが都会で生活する男にとってはごくありふれたことであると思っていたし、であるなら女にとっても欲望や承認欲求を激しくぶつける捌け口が必要であるのも明白に思える。そういう建前を毅然と持ったまま私は我が物顔で通りを歩いた。裕之が私に対する怒りや嫌悪や失望が芽生えたとして、それが私から裕之を遠ざける結果になったとしても、それは自分の中で事実以上の出来事にはならないのではないかと思った。客観的に見て、私はそういう女たちに劣っているとは思わなかったし、少なくとも私は精神的に自立している。思い返せば子どもの頃からたくさん肯定されながら育ってきたし、大人になった今でもたくさんの種類の感情を寄せられる。例えば会社の異性の社員からある程度価値のある女であるかのような扱いを受けることや、同性の社員たちからの敬意や憧れや、嫉妬や羞恥の目で見られることもある。その裏側で、私は周りの誰かを相対的に卑下している。大人になった私は遠い距離から、いつも誰かの価値を計測したがっている。
コンビニで簡単な食事を買ったけれど、恐らくそれらはほとんど口に運ばれないままゴミ袋に詰められて捨てられるだろうと思う。それでも一応何かの体裁を保つように冷たいサーモンの寿司が五貫並んだプラスチックをビニール袋に入れて手に持ちながら、私たちはホテルに向かう。輝かしい光の心地は渋谷とも代々木とも、もちろん東京タワーとも違う。綺麗さや華やかさという言葉には足りない、計算し尽くされた不埒な空気が私の背中を強く押す。
ホテル街に多くのカップルが往来しているのは普通だけれど、親子ほど年の離れた男女が仲良く腕を組んで歩いている姿も決して異常ではない。ここを歩く人たちそれぞれに個別の人生の分岐点が存在していて、その断片と断片がただ隣り合って見えているだけだ。いったい誰に向けての体裁なのかは私もナベシマも分からないけれど、私たちは手を繋いだまま、別にそれが何の下心もないような顔をして歩いた。その頭の中で、いかにも男らしい手つきが私の体の至るところを触れて回るのを想像している。
チェックインを済ませた部屋は小さなテレビと冷蔵庫とソファがこじんまりと置かれている他はほとんどが大きなベッドに占められていて、そこに腰を掛けると外側が摺りガラス状になっているバスルームが見える。もしもこんなにも欲望に忠実な部屋に住んだりしたらどんな気分になるだろうと思った。夜眠りについてから朝目が覚める瞬間まで、現実のどんな事象にも邪魔されないほど深い眠りにつくことができるのではないかも知れないなと思った。
ナベシマはスマホのアラームを一二○分にセットすると、そのままごく自然に私にキスをした。ナベシマの手はまだあまり温かくなかったけれど、口から漏れた私の吐息の温度がまたぐっと上昇したのが分かった。私はなぜか照れていないように振舞って笑う。ナベシマはバスルームのスイッチを押して浴槽にお湯を張る。じゃーという大きな音と共にお湯と湯気が一気にバスルームに充満した。
ナベシマがもう一度私にキスをした。今度はナベシマの温かい舌が私の口の中を丁寧にくすぐった。唾液に混じった性欲が口を伝ってナベシマまで達する。お湯は大きな音に比例してどんどんと浴槽に溜まっていく。次第にお湯が溢れ出すかもしれない。唇が離れると私の手が反射的にナベシマの体に伸びる。ナベシマは左手の細長い指で私の右の手首をしっかりと掴むと、もう一度力強くキスをしながらもう片方の手で私のお腹に触れた。サッカーだとボールに手で触れると反則になる。そんなのは誰でも知っている常識だけど、恋人ではない綺麗な男にお金を払ってでも裸にされたいと思う女がいることも反則ではないと思いたい。
ナベシマの手は私のお腹から徐々に下に移動して、やがてスカート越しに私の性器の上をなぞり始める。くすぐったくて私の口から子供が笑うような声が漏れたので、もう一度ナベシマの舌に塞がれる。じゃーっと浴槽にお湯が溜まる音が、先ほどまでよりも果てしなく遠くに感じた。サーモンの寿司はビニール袋に入ったままテーブルの上に置かれていて、脂と酸の匂いがまだ微かに私の手元に残っている。その匂いより遥かに高度な欲を伴ってナベシマの香水が香った。この後私とナベシマは共に裸になってシャワーを浴びた後、温かくなった彼の手によってアロマオイルが私の背中に塗られる。じっとりと潤った私の体がナベシマによって溶かされ、やがて私は絶頂に至るのだ。研ぎ澄まされた肌の感覚がナベシマの細長い指先の微細な動きの全てを感じ取りながら、日本代表の試合よりもよっぽど興奮している自分に少しだけ照れる。
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