セックスとメッシ

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 ゴールが決まったのと同じくらい大きな歓声が、キックを蹴る前のメッシに既に奪われている。前半十分、カタールのスタジアム中が注目するその背中は、手元の小さなスマホの画面の中で異質な輝きを放っていた。  サッカーなんて全然詳しくない私でもリオネル・メッシは知っている。海外のチームで活躍する世界一の選手。私が子供の頃からずっと一線で活躍し続けるスーパースター。他にもネイマールとか、クリスティアーノ・ロナウドとか、日本人なら長友に吉田に本田に、きっと私じゃなくてもある程度長く世の中の関心の中で生活を続けていた人なら誰でも名前くらい聞いたことがあるのだろうと思う。ワールドカップの時だけサッカーを見るのはミーハーだなんて言われるけれど、テレビのニュースやSNSを開く度に大々的に報じられているのだから、むしろ話題にならない方が不自然に感じるし、情報が耳に入らないほうがおかしい。  いつもと同じようにしっかりとメイクをして、せっかく早く家を出たのに結局満員の地下鉄に嫌みの一つでも言いたくなって、それでも朝からコーヒーチェーン店の温かなカフェラテを手に余裕を持って出勤して、そういういつも通りな日々の中に、浮かぶように現れるワールドカップという非日常。当たり前のように誰かがリツイートした前日の試合のハイライトがタイムラインに飛び込んでくる。アルゼンチン対サウジアラビア戦は、グループⅭの第一節。スマホでもサッカーの試合が見られるようになって、昔よりだいぶ身近になった異国の行事。それをいかにも遠くの国で起きている出来事のように私は眺める。  メッシがアルゼンチンの代表で、今年でもう三十五歳になるということは最近になって知った。  初めてメッシをテレビで見たのはいつ頃だっただろうか。もう何年も前に初めてメッシを見た時、背の高い選手たちの間をドリブルで駆けあがる姿がかっこいいなと思った。足に吸い付くようにコントロールされたボールが相手に阻まれることなく、面白いようにゴール前まで運ばれていくのを見るのはなんだか快感で、左足で蹴られたボールが精いっぱい腕を伸ばしたゴールキーパーの上を軽やかに越えてネットを揺らすのを見ると背中の奥がうずうずとした。目の前で鮮やかに切り返されるドリブルを見た相手の選手も、バスケットボールがリングを通過するみたいな歯切れのいい音でゴールを奪われたキーパーも、口を開けたまま呆けてしまっているのではないかと思った。  試合のハイライトで躍動するメッシはユニフォームの上からでも分かるほどの入れ墨を腕に刻んでいる。かつての青年といった印象とは全く異なって見える彼からはしかし、今も変わらず圧倒的な興奮を周囲に放ち続けている。  サウジアラビアのゴールキーパーの裏をかいてペナルティキックをゴールの左隅に決めたメッシを見ながら、こんなふうに軽やかにシュートを決められたらどれだけ気持ちがいいんだろうと思った。例えばゴールを決めた選手がユニフォームを脱ぎ棄てたり、スライディングをした仲間に折り重なるように覆いかぶさったり、サポーターの前に駆け出して高々と拳を突き上げたりしたら、いったいどれほどの快感を得られることができるのだろうか。画面を覗くことしかしていない私にはきっと想像もつかないほどの興奮が、選手たちの体の奥底でどくどくと力強く脈打っていることだろう。その熱が私の体の内側に侵食していくのを想像するには、始業までの時間は短いうえに公的過ぎるなと思う。  試合のハイライトが再生されたままのSNSのアプリを止めた。選手たちは試合を一時停止することはできないのに、私たちはとても自由だなと思う。まだ熱いカフェラテを飲むと口から体の真ん中まで、どろっとした熱さが真っすぐ落ちていくのを感じた。  朝礼では顧客や取引先から報告があった案件やその他の業務上必要な情報共有が続けられているが、ほとんど昨日と同じ内容で好転も不具合が生じてもいないように思える。納品依頼を掛けている照明機材は、半導体不足の影響で通常よりも納期に時間がかかっています。年明けからのS社の繁忙期に向けて、各取引先には必要部材の在庫数を確認しておくよう、順次声掛けをお願いします。先週不具合の報告が上がっていた空調機器の件については、現在メーカーが調査を行っており、週末には報告が上がってくると思いますので改めて共有します。キントーンシステムのマニュアルを一部更新しましたので皆さん一度目を通しておいてください。  この中で、メッシのペナルティキックを見た人はいったいどれだけいるだろう。  やはり多くの人が四年に一度のワールドカップをいかにも特別なイベントとして楽しもうとしているのだろうか。それとも私のように日本代表の試合さえ特に見ることができなくてもちっとも構わない人が大半なのだろうか。  少し前の日本代表にはまだ名前を知っている選手が何人かいた。本田や内田や遠藤といえば日本代表の試合にはいつも名前があった。対して今回の日本代表に選ばれている選手といえば、そのほとんどが初めて名前を聞いたような気がして、まるでユニフォーム以外は全く異なるチームにも思える。そんな選手たち一人一人の活躍に関心を持つ熱狂的なサポーターならこの日本代表がどんな戦い方で世界の強豪国を相手にするのかを、知恵や見栄を張り巡らせながら酒の場やインターネット上の世界で大らかに語ることだろう。  日本は優勝候補のスペインとドイツと同じグループであり、決勝トーナメントへの進出が難しいことは素人目に見ても明白である。普通に考えれば弱いチームより強いチームが勝つ確率のほうが高いし、日本とヨーロッパの二か国を比較してどちらのほうが強いかと問われた時に、両手を上げて日本と答えるサポーターは多くないだろう。きっとあらゆる角度から日本の弱さを研究した上で、それでも勝ち星に繋がる糸口がどこかにあることを期待して諦められない。  アルゼンチンは試合開始からものの十分で、メッシの鮮やかなシュートで先制点を手に入れた。メッシは私が子供の頃から今に至るまで、ずっと一流の選手であり続けているように思える。もちろん彼にも苦労や苦悩があったことに違いないはずだが、それを無視しても良いと思えるほど彼は一流だった。強い選手とは、天賦の才能だったり努力を求める体質だったり、大きな夢に向かって挑み続ける勇気がある者のことだと思う。どんな選手を相手にしても、どんな状況にあっても、もれなく相手を打ちのめして勝利を掴むような、そういう強さを持つ選手がいたとしたら、それは勝利の女神やサッカーの神様だって、つい贔屓目で見て背中を押したくなるのかもしれない。  朝礼の終わりはキックオフのホイッスルのように明快な終了を告げるわけでもなく、どんよりと朝の気だるさに後ろ髪を引かれるような億劫さを持ったまま一日が始まる。  朝から簡単に声を掛けてくる上司はサッカー選手とはまるっきり異なる中年体型である。軋むような挨拶とたわいのなさを強調するような雑談に、返答する退屈さが伝わらないよう気を付けながら微笑み返す。鼻の穴を膨らませて笑う彼が喜劇のように見えて可笑しくなるのもいつもと変わらない。顧客から来る注文書や発注書を右から左に順番に処理していって、時々掛かってくる電話やメールの応対をしているうちにまた何事もなく午前中が終わる。  ランチに誘ってくる後輩はいつもメイクとヘアスタイルが整っていて、その若々しさが少し羨ましくもあれど、そういう人に慕われている自分も客観的に見ればあまり悪くないのではないかと思い自分を愛でた。多少のイレギュラーがあろうとも、ワールドカップみたいな劇的なゴールは私の生活には生まれない。ただドリブルをして、ピッチの端から端まで往復するような生活。そこそこの自己満足に浸れるほどには、十分すぎる普通。 「三田のほうに新しいお店できてましたよね? あそことかどうですか?」  鉢屋の目は丁寧に折り重ねられたようにくっきりとした二重瞼を持っていて、その周辺には薄く化粧を施していることを男性社員に感じさせるシャドウとライナーが纏わっている。マスクを常備するようになってから自然と人の目を見る機会が多くなった。薄いピンクのシャドウはどこのブランドのものだろう。彼女は自分に費やすべき物や時間やお金をこの歳にして十分に理解しているように思えた。その中の一つに私との時間があることもまた私の自尊心をとっぷりと満たす。私はスマホの画面を見ながらもう一度前髪を整えて、港区のビル風にすぐに崩されてしまった前髪をまた愚痴を言いながら整える自分を想像した。  自分で言うのもどうかと思うが、とても東京の女らしく私はある。少なくとも後ろでエレベーターを待つ禿げた中年や、年齢の増加と共に派手になる服の色に気が付かない女たちや、学生みたいな安っぽさのスーツの男たちより、はるかにそうであるに違いない。  先輩昨日観ましたか、アルゼンチン。いやー観た観た、さすがに予想外。 「パスタがめちゃ美味しそうだったんですよ。あ、でも前に薫さんが教えてくれたところも美味しかったです」  メッシが先制点取った辺りは流石だったけど。あ、ワールドカップっすか? 僕昨日寝ちゃって、朝ニュースで見たんすよ。マジビビりました。前半オフサイドで流れ掴み損ねたよね。 「この時間ならまだそっちも空いてますかね?」  隣で話す鉢屋の声のほうが、男たちの会話よりも私に近い。  私の周りには、シュートを決めるような圧倒的な興奮や、予選を敗退するような悔しさで唇を噛みちぎるような爽やかさは、恐らくこの先も訪れないと思う。メッシにとってのサッカーみたいな、ワールドカップみたいなものが私にはない。それは最近になって一層思うようになったことの一つではあるが、そんなものがあってほしいと思わなくなっている自分にも同時に気がつく。  サウジアラビアが勝つとは、まさか思わなかったっす。  やがて到着したエレベーターを知らせる音もやはり、ホイッスルのそれとは似ても似つかない。
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