セックスとメッシ

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 ビルを出てから駅までの道はいかにもここが東京だと言わんばかりに風が強く吹いている。私はまたすぐに舞い上がろうとする前髪を手で押さえ付けた。  大通りで車高の低い外国産の車とタクシーとが中央分離帯を挟んですれ違う。その真っすぐな通りの延長線上には、綺麗なオレンジ色にライトアップされた東京タワーが見える。鉄骨の一本一本まで夜のなかに浮かび上がらせるその様相には、どれだけ見慣れてしまってもつい目が行ってしまう。  すっかり日が落ちるのも早くなり、気温も見る見るうちに低くなったが、それは昨日も同じで恐らく明日も同じだろう。東京タワーは時々、なにかのイベントに合わせたような色合いに様変わりすることがあれど、基本的にはほとんど変わり映えのしない風貌で同じ位置に鎮座している。  これまでの人生で一度だけ、東京タワーに登ったことがある。それは中学の修学旅行の時だから、今からもう十年以上も前のことだ。班行動になった二日目で男子三人と女子二人の併せて五人で一組になって東京タワーに登った。当時はもう東京スカイツリーの建設が始まっていたから、きっと近い将来には東京タワーもこんなに大きな顔をしたまま東京の街にはいられなくなるのかなと、これまで一度も登ったことも無いのに勝手に同情していた。  他の班の人は渋谷や原宿や浅草やお台場なんかに行ったりしていたが、東京タワーもやはり人気だった。展望台に着くなり男子はエレベーターから飛び出すようにして出ていって、それを見ながら私と、その頃最も仲が良かった美咲も、やはり子供らしさを抑えられないように浮足立って東京の景色を見渡した。その頃と今では東京の景色は大きく異なるだろうけれど、東京タワーは今日に至るまで変わらず東京の象徴であり続けている。いつでも変わらないその佇まいに少しばかり窮屈さを感じるが、一貫した揺るぎない逞しさのようなものも肌身に感じた。東京タワーを背にして写真を撮る外国人がいることさえも、この街に欠かすことのできない風景の一つに思える。  都営大江戸線大門駅のホームは地上から随分と階段を降りたところに位置していて、重力に従って足を動かしているうちに私の歩みはどんどんと加速した。夕刻になると多くのサラリーマンが整然と自動改札機に吸い込まれていく。みな厚手の上着を着ているために、その重厚さが更に地下鉄の空気を息苦しくする。そういう鬱屈とした夕方から抜け出したくて、ポケットからスマホを手さぐりで掴んだ。  裕之からは昼前に短い連絡があったきり、こちらの返信に既読さえ付かない。忙しい年末の仕事の息抜きも兼ねて、日本代表の試合を観に職場の同僚たちとお酒を飲みに行くのだそうだ。サッカー好きな人か酒好きな人か、もしくはお祭り騒ぎが好きな人が集まればそうなることは必然である。  裕之は高校生の頃にサッカーをやっていて、高校三年生の時には全国大会に出場した。昔の活躍の話をまるで昨日の事のように話すのはなんだか年寄りくさいけれど、彼の活躍によってチームを勝たせたというような口ぶりは一生懸命にサッカーに打ち込んだという何よりの証拠であるように思えたし、それをその後の人生の支えにできているのは素直にすごいなと思った。  スポーツで結果を出す人間は社会に出ても上手くいく、そういう話を初めて聞いたときはそれこそそいつを蹴り上げたくなるほど苛立ったが、大人になるに連れて自分にはない経験をしている人を見ると、それがいかに凄いことかを実感した。若い頃はそれが羨ましかったり、疎ましかったり、妬ましく感じたりもしたけれど、今となってはそういう自分の知らない苦労を経験した人のことを素直にすごいなと思うようになった。それがどれだけ刺激的なことだったのか語るのを聞いていると、私の周りについて回る色々な嫌なことから少し距離を置いて、気を紛らわすことができるような気になった。それこそテレビの向こうの、全然知らない世界を見ているみたいに。  ただ、裕之がサッカーや部活で過ごした時間やそれらが繋いだ縁のようなものが今の彼を形成しているのは間違いないが、生まれついて持った彼の性質もまた歳を重ねるごとに濃縮されているように思えた。持ち前の楽観的なところや好奇心を担保に仕事をしているところは、見る角度が変われば短絡的や将来のことを考えていない幼稚さのようにも映る。時に私も彼の根から陽気な性格が自分に見合わないような気がすることもあったけれど、かといってこれまで二十七年連れ添ってきた私の性格を変えるほどの価値が彼にあるのか、考えまいとしても無視することはできなかった。先天的な自分の性質と後天的に獲得した自分の本質を擦り合わせながら生きていくのは難しい。それをごく自然に調和させながら、東京の人間は大人になるのだと思う。  電車に乗ってすぐ右側の扉に最も近いところに立った。スマホを取り出し、今朝から流し見ていたアルゼンチンの試合のハイライトをもう一度続きから再生する。画面の中で、後半わずか数分でサウジアラビアの選手が放った二本のシュートが立て続けにゴールネットを揺らした。  メッシはペナルティキックの直後とは打って変わって重い表情でピッチ上に佇んでいる。サウジアラビアが勝つこともあれば、アルゼンチンが負けることもあるのだろうが、アルゼンチンがサウジアラビアに負けることはほとんどの人が予想しなかったであろう。それほどに両者には力の差があると思われていた。  サウジアラビアの大金星に驚くと共に、熱心な日本人のサポーターたちは強豪国との戦いを控える日本への無責任な期待の言葉をSNSのタイムライン上に並べていた。  どうして人は他人ができたことなら自分にもできると思ってしまうのだろう。他人にできたことが自分にもできることであるのなら、それはあなたに価値がないのと同義である。スポーツの試合を観ながら素直に声援を送れなくなったのはいつからだっただろうかと思い返すけれど、元々私はそういう性格だったような気もするし、だとしたらそれを私が気に留める事さえ烏滸がましいような気さえした。  日本の初戦は今日の二十二時で、相手はドイツ。過去に優勝経験もある強豪国がグループリーグ突破を阻む。厳しい戦いになるであろうということは間違いなくて、日本のサポーターやコメンテーターも以前から繰り返し辛辣なコメントをしていた。  それはとても特別なことだ。アルゼンチンに勝利してお祭りのように歓喜するサウジアラビアの選手たちも、アルゼンチンの選手たちの険しい表情も、どちらもワールドカップの舞台がもたらす非日常的なものである。多くの歓喜と失意と熱狂が遠いところにいる会ったことも観たことさえもない彼らを生活の中から浮き彫りにして、なぜかとても身近に感じさせるから不思議だ。現実では、試合を観て興奮するほとんどの人の目の前に、ワールドカップはおろか、予選突破を妨げるライバルさえ立ちはだかってすらくれない。  渋谷にあるアイリッシュパブに行って、コロナやハイネケンやハートランドを飲みながら同僚と肩を組む裕之を想像する。そういうお店が満員のお客さんで賑わっているのは以前は普通の日常だったけれど、ここ数年ではどちらかと言えば非日常的なことであった。ブルーのユニフォームに袖を通して、ボールを持った選手やその周りで動きを見せる日本の選手たちの名前を口にしたり、まるでカタールの舞台に立っているのと同じくらい偉大なことをしているかのような表情で酒を酌み交わしている裕之とその他の若い男女の姿を想像する。  相手の選手のシュートにはみんなで冗談のような大袈裟なリアクションをとって、日本のゴールが決まれば、周りにいるほとんど知らない人たちと同じ興奮を共有したりするのだろうか。  みんな同じ瞬間に、同じ熱さで絶頂に達する。そういう瞬間を想像して私は一歩も二歩も先を行かれたような気分になるから、どこかで、達観して彼らを微笑ましく見ることができる場所を、いつも探している。
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