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「家に篭っている者もいたのかもしれないが、まともな多くの者が外に出て逃げ惑っていたよ。逃げると言っても、どこに逃げればいいのかもわからない様子だったが。僕はとにかく、避難と言えば学校だろうという感覚でここに来た。おかげで助かったよ」
「しかし、怪我をしたわけではないのなら、その血はどうしたのです?」
真澄にされた説明によって覚悟ができていたのか、妙に冷静な様子で黙って話を聞いていた高橋さんが問いかける。倉田先生は一瞬言葉に詰まってから、また一段と小さな声で話しはじめた。
「僕は妻と共に家にいて、ちょうど夕飯を食べていたんだ。サイレンが鳴って何事かと思っていると、家にスコップを担いだ雄大さんが土足のまま入ってきた。最初はなにかがあって、慌てて僕のことを呼びに来たのかと思ったんだよ。でも、彼の異変にはすぐ気がついた。言葉もなく襲いかかってきた彼から、妻と一緒に家から逃げ出したんだ」
妻と一緒に逃げた、と言っているが、実際問題ここに倉田先生の妻はいない。その事実自体が、これから倉田先生が言わんとしていることの結論な気がした。彼の話は続く。
「家の外は、さっきも言ったような有様だったよ。そこで、おかしくなったのは雄大さんだけではないことを知ったんだ。はじめから学校に来るつもりで、妻と共に必死に逃げたんだが……妻は元々足が悪い。雄大さんにすぐ追い付かれてしまってね」
語尾に近づくほどに声はくぐもり、倉田先生はついに黙り込んだ。つまり、彼の服についている血は彼の妻のものだということなのだろう。
「奥さんを、見捨てたんですね」
重苦しい沈黙を破り、冷淡な声音で言い放ったのは高橋さんだった。彼女の強い言葉に、この場にいる全員が驚いた。
「な、何てことを言うんだ。たしかに、結果として僕は妻を助けられなかったかもしれない。しかし、僕は彼女を庇おうとしたんだ。ただ、間に合わなかった。僕はそのことを悔やんで……」
倉田先生が眉を吊り上げ反論の声を上げる。その言葉の途中で、まるで表情が凍りついてしまったかのように、無感情のままの高橋さんが言葉を挟む。
「では、なぜ血が付着しているのがあなたの背中側なのですか?」
「なぜって、そんなことを言われてもだね」
「足の悪い奥さんがあなたのすぐ後ろを追いかけてくる。その奥さんめがけて雄大さんがスコップを振り下ろす。あなたは振り返ることもなく、奥さんを標的にした雄大さんが足止めされたのをいいことに逃げたのでしょう。そうでなければ、他人の血はそんな風にはつかないんですよ」
淡々と言葉を連ねる高橋さんの様子に、この場にいる全員が本格的な違和感を覚え出したときだった。
高橋さんは倉田先生の背後に回り込むと、彼の首元に腕を回して無理やり立たせて体を拘束した。そのまま、どこかから取り出したナイフを握りしめ、倉田先生の胸にナイフの切っ先を突きつける。
あまりにも急なことで、倉田先生はなにが起こったかわからなかったようだ。悲鳴を上げることもなく、高橋さんに体を掴まれたまま身を竦ませている。
「高橋さん!」
「動かないで」
すぐさま反応したのは真澄だ。彼が立ち上がり身構えた瞬間、高橋さんは間髪入れずに告げた。大声ではなく、語気が強いわけでもない。それでも、彼女の声には妙な迫力があり、真澄の行動をすぐさま制止させる。
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