終章 古鳥

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 軽トラックが役場の前に到着し、私は車を降りた。真澄には先に家に帰ってもらうように伝える。結局、私はいまも杉原の家で真澄と妙子さんと共に暮らしている。オーストラリアに戻る気はまったく無くなっていた。  役場の中に入ると、受付の奥に設けられた応接スペースに、警察の制服を着た男性が一人座っていた。その姿を見て、私は僅かに目を細める。警察は、事件の捜査であれば二人以上で行動するはずだ。一人でやってきたということは、なにか通報があったのだとしても、ただの確認に過ぎない。  役場に入ってきた私の姿に、警察官の前に座っていた安倍さんが、ほっとしたような表情を浮かべて立ち上がる。 「ご足労いただきまして申し訳ございません。こちらは土間警察署からいらっしゃった木場(きば)さんです。木場さん、こちらは一条さんです」 「こんにちは、町内会長をさせていただいている一条です。本日は古鳥にどんなご用でしょうか」  安倍さんに紹介されるまま、同じく立ち上がった木場という警察官を眺める。年齢は四十代ほどだろう。態度は落ち着いていて、職務にはもうすっかり慣れきっている様子が窺える。 「どうも、土間警察署の木場です。町内会長さんがこんなにお若い方とは思わなかった」 「町内会長と言っても、雑用係のようなものですよ。なにかと体力がある方が重宝されますので。それで、本日はどのようなご用件で?」 「いやね、実は古鳥にお住まいの本馬(ほんま)さんご一家と連絡が取れなくなったと、お嫁さんのご実家から通報がありまして。小学生のお孫さんもいらっしゃるということだったので、心配されていて。一応ね、安否確認だけさせてもらえないかなと、それだけだったんですが、なんでも先に町内会長さんを通して欲しいということでね、お待ちしておりまして」 「なるほど、そうでしたか。余計なお時間を取らせてしまってすみません。本馬さんのご自宅までご案内いたしますね。ここから近いので、歩いて行きましょう」  そう説明をして、安倍さんに見送られながら、木場さんを連れて外へと出る。  本馬という名前には覚えがある。潜暗夜で家ごと燃やされて亡くなった一家だったはずだ。つまり、彼らはすでにこの世にはいない。肉体も燃えてしまっているため、陰の民が成り代わっているわけでもない。安否確認などできようはずもなかった。 「一条さんは、本馬さんご一家の最近の様子などもご存知ですか?」 「ええ、古鳥は狭い集落ですから、全員が顔見知りですよ。いつもとまったく変わった様子もなく、お元気です。しかし、わざわざこんな山奥まで来てくださって、ご足労をおかけしましたね。電話でご連絡いただけたら、お答えしたんですが」 「そうですか。いや、駐在の東寺に連絡して、本馬さんご一家は問題ないという返事はもらっていて、お嫁さんのご実家にもそう連絡はしたんですが。後日、ちゃんと様子を見てきて欲しいと、また通報が入ったような次第で」 「なるほど、そうでしたか。本馬さんのお嫁さんも、ご実家と連絡をとりたくない事情でもあるのかもしれませんね。家庭のいざこざに巻き込まれてしまったような形でしょうか。ご苦労様です」 「ははは、そうかもしれませんな」  当たり障りのない会話をしながら、木場さんを連れて数分歩き、立派な一軒家の前に到着した。母屋の右手にある車庫には、国産車ではあるものの、高級車に分類されるシルバーのセダンがとまっている。  玄関前までやってきて、チャイムなど鳴らすこともなく私が引き戸を開けると、木場さんは驚いた表情を浮かべた。 「声をかけなくていいんですか」 「ああ、大丈夫ですよ。家族ぐるみの付き合いがありますから、親戚みたいなもので。どうぞ、上がってください」  木場さんに声をかけながら、靴を脱いで家の中に上がる。家の中には電気が付いておらず、雨戸もしまっている。明るい外との明暗差もあり、家の中が妙に暗いことは一見してわかる。 「お留守ではないのですか?」 「いえ、車庫に車がありましたし、ご在宅のはずですよ」  木場さんからの問いかけに答えてから、私は家の中へと声をかけた。鈍い頭痛が走る。 「本馬さーん、土間警察署から警察の方がいらっしゃって。本馬さんとお話があるそうです。ちょっと失礼しますね」  ——ホゥロ、古鳥の外から警察官が来た。火事で焼死した家族の安否確認にきたそうだ。予定していた手を使う。  確信を持って、二声を発する。すると、家の中の暗がりから男の声で返事があった。 「どうぞお上がりください。リビングにおります」  その声はもちろん、私の後ろにいる木場さんにも届いている。私は振り向き、再度声をかける。 「リビングだそうです。行きましょう」 「はあ。しかし、やけに暗いですね。どうして電気をつけていないのでしょう」  私が廊下を歩いていくと、木場さんは不審そうな声をあげつつも、後をついてきた。その言葉には応えず、リビングのドアを開いて中へと入る。 「一条さん?」  木場さんが続いて暗い部屋の中へと入り、私に向かって呼びかけてきた、そのとき。彼の背後でドアが閉まった。 「なんだ?」  振り向いた木場さんが目にしたのは、この世のものではない気配を纏う、長い白髪の男。ホゥロは逃げ道を塞ぐようにして、ただドアの前に佇む。 「誰だ、君は」  木場さんが問いかけるが、ホゥロが見ているのは私だけだ。  そして、ホゥロがいるドアとは反対側の、部屋の奥から人が姿を現す。七十歳はすぎていると思われる小柄な老人。頭頂部が綺麗に禿げていて、白髪混りの髪は左右の側頭部に残るのみ。彼は……いや、彼の皮は、倉田先生のものだ。 「その皮はもう捨てていい。この警察官に成り変わり、土間警察署で何事もなかったと報告をしてきてくれ。そのまま土間市で生活し、可能な限り、今後古鳥に捜査が来ないように手を回してもらえるか」  私が倉田先生に声をかけると、木場さんが凄まじい形相でこちらを見る。 「なんだ、いまの言葉。お前、なんて言ったんだ」 「かしこまりました」  木場さんを蚊帳の外に置いたまま、倉田先生が私に返事をする。私は頷き、木場さんから距離を置くように一歩下がった。  倉田先生が木場さんに向けて両手を伸ばす。そして、そのまま静かに近づいていった。 「おい、来るな。止まれ!」  木場さんが彼自身の腰へと手をかけた瞬間、彼の背後からホゥロがその体を羽交締めにした。倉田先生の両手が木場さんの顔を掴む。  倉田先生の口が、ゆっくりと開いていく。正しく描写しようとすれば、顎が溶けるように落ちていっているのだ。口の開き方は顎が外れるほどに大きく、もはや人体の限界を超えている。  口の奥に、本来は人の体内にあるはずもない黒い塊が覗いた。暗闇の中で塊はぬらぬらと怪しく光り、ゆっくりと出てくる。そして、人の皮を脱ぎ去るように、歯列の下から黒い異形の頭が現れた。ビー玉のような真っ黒の瞳が二つ、視線を定めるようにぐるりと動く。 「ぎゃあああああああっ」  至近距離でその姿を目撃し、木場さんが耳を劈くほどの悲鳴をあげた。同時に開いた口の中へと、倉田先生の口から出てきた異形が細長いものを伸ばす。黒い物体が差し込まれ、彼の口の中が塞がれると、悲鳴はくぐもり、苦しそうな呻き声が漏れるのみになった。ホゥロの拘束が緩むと、倉田先生もろとも二人の体がベシャリと床に倒れ伏す。 「……すみません」  見るに堪えなくなり、私は、ついにその光景から目をそらした。  それからしばらく、形容し難く、聞き苦しい音が響く。それはどこか、獣が獲物を喰らう咀嚼音のようでもあった。
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