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「思い出されましたか?」
ハッとして顔を上げると、私の表情を注意深く見守っていたホゥロに問いかけられる。
「ホゥロは、私が無意識のうちに二声を使って話していたことや、過去を覚えていないことに、気がついていたのか?」
「はい。主様の様子を見て、察しておりました」
「どうして、教えてくれなかったのだ」
「主様がなさるすべてのことには意味があります。主様が過去を忘れたということは、その必要があったということ。我は主様に従います。主様が自然と思い出されるまで、主様ご自身にも気づかれぬよう、我は待っておりました」
淡々と会話を続けたあと、ホゥロはあの夜と同じように、私の目の前に膝をつき、握った手を自身の額に押し当てる。
「受け入れる器がないままに水を流し込めば、水は溢れ、周囲のものを押し流し、壊す。それは心も同じです。準備がないままに直視すれば、心が壊れてしまうほどの過去。幼き主様が感じた苦しみは、どれほどのものだったでしょう。なんと、お労しい」
思い出した凄惨な過去。古鳥の人間への複雑な感情。自分が無意識下で放っていた言葉。すべてを理解し、ホゥロに握られた手から伝わってくる熱を感じながら、私はしばし呆然とする。
と、そのとき。窓の外から叫び声が聞こえてきた。
「誰か。誰か、助けてくれぇっ」
高く裏返った声は、切羽詰まった状況を感じさせる。しかし、聞きようによっては酷く間抜けだ。
様子をたしかめるために窓辺に寄ると、校庭を突っ切り、こちらへ向かって直走ってくる一人の男性の姿が見えた。遠い上に暗くてよく見えないが、私はすぐに、彼が倉田先生であることを勘づく。彼の姿に、その声に、心臓がドクンと跳ねる。
「誰かきたのか?」
隣にやってきた真澄が、同じように校庭を見下ろしながら問いかけてくる。
「そうらしい。おそらく、倉田先生だ」
私の呟きに、真澄は目を見開く。
「あ、言われてみればそうだ。でも、倉田先生は町内会長だぞ。重要な立場にいる人間が、こぞって陰の民に成り代わられているいま、倉田先生が無事だったなんてことがあるか?」
「わからない」
真澄の程する疑問に素直に答えながら窓の外を観察し続けていると、校庭に新たな人影が現れた。体格が大きい彼は、雄大さんだ。手にした大きなスコップを引きずるようにして持ちながら、余裕を感じさせる歩き方で倉田先生を追いかけている。
雄大さんは、陰の民に成り代わられていることが確定している人物だ。彼の登場によって、倉田先生が陰の民から逃げてきたのだという事情は一瞬で読み取れた。
その光景を目撃した途端、真澄が踵を返した。
「真澄、待て!」
「俺が戻ってくるまで戸は閉めて、ばあちゃんと高橋さんはここにいてください」
真澄は私の静止の声を聞かず、妙子さんと高橋さんに指示を残すと、そのまま廊下へと飛び出していった。私は心に引っかかるものを感じながらも、仕方なく真澄の後を追う。確認はしなかったが、後から響いてくる足音からして、ホゥロもついてきたようだ。
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